福岡銀行本店/黒川紀章




1975年、黒川紀章設計、福岡銀行本店。吹き抜けというのかなんというべきなのかわからないが、巨大な直方体をズコーンとえぐった空間がそびえたっている。天神の繁華街のすぐそば。「縁側」はカフェのテラス席として使われているようだった。
2013年GWに撮影。
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西日本シティ銀行本店(旧 福岡相互銀行本店)/磯崎新







1971年、磯崎新設計、西日本シティ銀行本店(旧 福岡相互銀行本店)。JR博多駅前に立つビル。一見奇抜なデザインではないようだが、しかしよくよく見るとちょっと異様な、重量感ある建物。巨大な「梁」を支える「柱」の太さを見よ。直方体を挟み込む2本の「梁」、切断されたパイプのモチーフは、アートプラザ(旧 大分県立中央図書館)*1と共通。
2013年GWに撮影。

*1:こちらも見てきたんで、後日写真を載せるつもり

院長は私たちの申出をきいて、私の姉にあたる女はその神の巫女になつてゐるといつた。

院長は私たちの申出をきいて、私の姉にあたる女はその神の巫女になつてゐるといつた。そしてこの祠の裏の小屋に案内してくれたが、私は暗い樹の茂みの奥のさらに暗い小屋のなかから出てくるものを、蛇のあなからはひでてくる蛇でも待つやうな気持で待ちながら眼をこらしてゐた。そのくらやみが私の過去に通じる穴であるかもしれないと私は思つたが、そのとき、私のうしろから近づいてくるもののけはいに振りかへると、痩せて背の高い女が不審さうに眉をひそめて私を見つめてゐた。これが探していた巫女すなはち私の姉であるらしいことは、私が自分の名をいつたときにその顔を照らした一瞬の羞恥の光でわかつたが、そのことはまた、この女のなかに正気が残つてゐることをも示してゐた。
倉橋由美子「神神がゐたころの話」『反悲劇』

それと符合するやうなことを現にしながら、何も知らずにさうしたといへるだらうか。

それと符合するやうなことを現にしながら、何も知らずにさうしたといへるだらうか。もし知らずにさうしたのであれば、その人間はただの厄災の被害者であるにすぎない。この哀れな人間は、神の気まぐれと戯れの材料にたまたまとりあげられただけのことだ。私の場合は明らかにそれとはちがつていた。私にはあらかじめ神のことばがあたへられてゐた。といふことは、神は、その手のうちを明らかにしたうへで、神の計畫を完成してくれるやうな人間を選んだといふことではないか。要するに私はさういふ人間で、すべてを知りながら神の共犯者をつとめさせられたのだ。
倉橋由美子「河口に死す」『反悲劇』

恥ぢを知らない男のことばですわ。

「恥ぢを知らない男のことばですわ。何よりも許せないのは、あなた御自身よりも、あなたのその種の理屈なんですわ。わたくしを、愛する心に變りはなかつたけれど、事のなりゆきが、結果が、わたくしの意に反することになつたのはやむをえないことだとおつしやるのでせうか。惡いのは氣持を變へてその結果を快く認めようとしないわたくしのはうだとおつしやりたいのですね。そして御自分には何の責任もないといふことですのね。そんな身勝手な理屈で女をいひくるめてしまふのが利巧な男といふものでせうか」
倉橋由美子「白い髪の童女」『反悲劇』

しかしこれはひとごとではないので、男といふものはいくら女を知つたつもりでも、ある日その女について本気で考へはじめると何もわかつてゐなかつたといふことがわかり、いくら考へてもその女をつかまへた気にならない點では百笑氏と五十歩百歩である。

しかしこれはひとごとではないので、男といふものはいくら女を知つたつもりでも、ある日その女について本気で考へはじめると何もわかつてゐなかつたといふことがわかり、いくら考へてもその女をつかまへた気にならない點では百笑氏と五十歩百歩である。つまり、女といふものは暗黒または穴でしかなくて、男は、あるひは男の分泌した想像は、それに吸ひこまれてしまふほかないといふことがわかる。さうしてついでに、「私」の妻のLもさういふ穴であつて、不在といふことも穴のひとつの属性であることをつけくはへておく。
倉橋由美子「酔郷にて」『反悲劇』

たしかにぼくはLの話を理解することができた。

たしかにぼくはLの話を理解することができた。これは起りうることだ。ここではーーといふのはそれまでぼくが住んでゐた感化院のやうな個體状の世界の外の、この自由なガス状の世界では、といふ意味だけれどーーどんなことも起りうるかはりに、なにごとも信じられない。あらゆるものが可能性の胞衣に包まれて浮遊してゐるのでひとはなにが起つても驚かない。だが驚愕や恐怖のあまり「信じられない!」と叫ぶときひとははじめて信じることができるのではないだらうか?
倉橋由美子「向日葵の家」『反悲劇』