芸術作品としての秋葉原通り魔事件

個別事例と全体の傾向とは、別である。誰かが人を殺したのは、むしゃくしゃしてやっただけのことかもしれないし。たとえば非正規雇用問題について語りたいなら、統計を見ればいい。その集合に属するたった一つの個体の行動に、なぜこだわってアレコレ言う必要があるのか。人殺しが登場してもしなくても、問題は問題として、そこに厳然としてあるはずではないのか。決して「平均」ではないものを「典型」として取り出すことを、何が許すのか。いかにして一つの事件、一つの行為が、象徴――「そこに無いものの代わり」としての役割を果たすのか。現代的貧困の犠牲者として彼を扱うことは、不謹慎な政治戦略だろうか。

事件は、作品である。それは、〈語らい〉を引き起こすことによって、〈出来事〉として現れる。批評を通して、芸術が芸術たりうるように。私たちは、一枚の絵、一篇の小説を以って、あるいはまた、殺人事件を以って、社会を、時代を、捉える。むろん、そこに捉えられるべき裸の真実があるわけではない。それは空虚な〈出来事〉として、水底に突如開いた亀裂のように、その周囲に渦を作り、世界を塗り替えてしまう。

芸術作品は「何でもいい何か」でなければならない、というテーゼは、こうした文脈で理解してよいものだろうか。殺人者は、「誰でもいい誰か」として、見いだされている。