「中国問題がナショナリズムのシンボルとして用いられる所以」

中国問題がいつも外交問題というよりは国内問題の観を呈するのは、私見によれば、それが近代日本におけるアイデンティティの問題に深くかかわっているからだと思われる。西欧列強の圧力の下で、海国―近代化の道程を歩むことを余儀なくされたペリー以後の日本にとって、欧米諸国は心理的につねに“そと”にあったが、中国は逆につねに“うち”にあった。良きにつけ悪しきにつけ、中国問題がナショナリズムのシンボルとして用いられる所以である。さらにまた、近代日本における政府は、よって立つ基盤をいかなる政党に置き、いかなる政治的勢力に置こうとも、必然的に欧米諸国と交渉を持たざるを得ない立場に追いやられるので、それだけインターナショナルな、あるいはより少なくナショナルなシンボルとならざるを得ない。中国問題が、外交課題として追求されるよりも、むしろ倒閣運動の旗印として、種々の反対勢力に利用され、国内の政情を混乱させて、結果として日本の外交交渉の立場を弱めるかたちになりがちな理由が、そこにあると考えられる。
江藤淳「日本とアメリカ――一つの省察」(文春文庫『アメリカと私』所収/「中央公論」昭和46年12月号初出)

アメリカと私 (文春文庫)

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