「親は子供を愛している」幻想とナショナリズム

「親は、子供を愛しているものだ」という説が、これほどに広く囁かれていることには、驚かされる。もちろん、事実としては、「子供を愛する親もいるし、そうでない親もいる」。そんなこと、ニュースをちょっと見ていれば分かることで。ネグレクト、虐待、子殺し。しかしそれにも関わらず、人々は「親は子供を愛するものだ」と主張する。とりあえずその害悪を指摘するならば、そういった幻想の流布は家庭を聖域化し、家庭内における暴力や犯罪を隠蔽し、たとえば社会福祉児童虐待などといった事態に介入する機会を奪うだろう、といった感じか。google:母性本能 ジェンダー(←あ、なんかすごい頑張ってる感じのサイトがたくさん出てきちゃう…)。親子の愛を当然視するそういった言説の一方で、家族の危機が叫ばれる。まず親を教育せねば、など。あるいは治安悪化幻想。親が子供を殺すだなんて、まったく狂った世の中になってしまった! 思うに、「親子の愛」への信仰と、それが危機に瀕している、という感覚とは、表裏なのではないか。国家への信仰と、それが危機に瀕しているという感覚とが一体であるように。ナショナリストは、国家を自明なものとする。それへの愛を、当然のものとする。日本に生まれ育った日本人が日本を愛するのは当たり前である。ならば放っておけば愛国者だらけの素敵な日本になるのでは、とも思われるが、そういうわけには行かない。教育基本法愛国心を書き込みたがる人々。それは自明ではあるが、育まれねばならないのだ。本来的な家族や国家の性質があり、それに反するものは堕落であり、善は目覚めとともに気づかれるべきものである。政治的文脈で言えばこれは右翼的であり(敵がいるとすればそれは“そと”から来たものであり、善は“うち”にすでにあるはずだ)、哲学的に言えば、プラトニックだ。「知らないものをどうやって知ることができるか?」。想起によって、とソクラテスは答えたとか。ともかく、ここには十分に理性的になることによっては乗り越えられない途切れ目がある。民主主義の染みとしてのナショナリズム。一般から普遍への飛躍を許可するシステムとしてのイデア論

http://d.hatena.ne.jp/./kmizusawa/20080723/p1を読んで、思考が上記のごとくトリップ。