大澤真幸『逆説の民主主義』

http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20080723#p1で紹介されていて、面白そうだったので、読んだ。

私が最近考えていたことと似たことが書いてあって、さすがは真幸。(なに?) 私が最近考えていたこと、というのは、秋葉原の事件を受けての、このエントリ。

事件は、作品である。それは、〈語らい〉を引き起こすことによって、〈出来事〉として現れる。批評を通して、芸術が芸術たりうるように。私たちは、一枚の絵、一篇の小説を以って、あるいはまた、殺人事件を以って、社会を、時代を、捉える。むろん、そこに捉えられるべき裸の真実があるわけではない。それは空虚な〈出来事〉として、水底に突如開いた亀裂のように、その周囲に渦を作り、世界を塗り替えてしまう。

芸術作品は「何でもいい何か」でなければならない、というテーゼは、こうした文脈で理解してよいものだろうか。殺人者は、「誰でもいい誰か」として、見いだされている。

芸術作品としての秋葉原通り魔事件 - 或いは、然し

「芸術作品は『何でもいい何か』」などと書いたけれど、この発想のネタ本は芸術の名において―デュシャン以後のカント/デュシャンによるカントであり、大澤とは(たぶん)関係ない。私はここで、芸術作品と犯罪者を類比し、それが「何でもいい何か/誰でもいい誰か」として見出されているのではないか、と指摘した。こうした芸術のあり方を完璧に示したのは、マルセル・デュシャンであった、てのがネタ本での話。デュシャンかっこいいよデュシャン。大澤の本にもほとんど似たようなことが書いてあったが、それはキリストが「普通の人間」であったという箇所。キリストは「誰でもいい誰か」だった。「誰でもいい誰か」でなければならなかった。なおかつ、キリストは神である。(便器は芸術作品である)。そのキリストを「虚の焦点」として、キリスト教徒の共同体が可能になる。

スラヴォイ・ジジェクは、キリストは――マルセル・デュシャンの芸術を連想させる――「レディメイドの神」であるという、批評家のボリス・グロイスの実に巧みな言葉を引いている。便器だろうが、自転車の残骸だろうが、芸術作品になりうるのだが、それは、それらの対象物の内在的性質――たとえばとりわけ美しいといった――によるわけではない。それらの対象物は、他の日常的な事物と異ならないのだが、ただ、その置かれた「場所」によって芸術作品になっているのだ。
p.92

グロイス→ジジェク→大澤→いまここ。曾孫引きだ。大澤はこのキリスト解釈と、沖縄の米兵による少女暴行事件から、真に民主主義的な運動の可能性を考えている。95年の少女暴行事件を期に起こった大規模な運動は、「排除された特異点」としての被害者少女を触媒とすることで可能となった、と。大澤の例だと、磔刑に処されたキリストとか米兵に暴行された少女とか、完璧に被害者な立場の人が「特異点」たりうるっていう話に見えるけれども、そんなことは無いはず。秋葉原の事件の犯人が、加害者でありながら「犠牲者」として、「無としての他者」として機能する可能性は、ある(あった)のではないか。

冒頭にリンクしたzoot32さんによる紹介。

したがって、四五年八月十五日(E1)が戦争の終わりだったとか、そのときこそが戦後史の始点であるとする認識は、五五年以降の時点*1(E2)を暗黙の前提としているのだ。一般に、出来事E1は、それ自体としては、何ものでもない。E1が何ものか(つまりE1)であるためには、E2が必要となるのだ。

これはとても元気のでる言葉だ。「出来事E1は、それ自体としては、何ものでもない」。うん。まさにその通りです。これには生きるエネルギーが湧いてくる。仮に、わたしは失敗したのだろうか? わたしは人生における選択を誤ったのだろうか? と悩むことがあっても、もし今がE1であれば、答えはE2になってみないとわからないということになる。E1を定義づけるのは、未来における視点E2なのだ。E2という事後的な視点でふりかえったときに、ようやくE1という行動に文脈が発生し、意味づけがなされる。過去とはいくらでも自由にまげたり伸ばしたりできるものだ。過去を決めるのは未来の自分である。

だからわれわれは、E2のタイミングがくるまでのあいだに、E1という選択や行動をよりよいものにする工夫をすればいいのだ。わーい。過去が取り返しのつかないものだとおもっている人は、この本を読んでほしい。「過去は可塑的で、観察者によって再定義が可能なのだ」とあらためて感じることができる。そこがよかった。

裸の事実が存在しないとすれば、そこにはただ多様な解釈が広がるのみだ。歴史は過去の事実ではなく、現在において政治的に――政治的でない歴史もあるだろうか?――構成されたものにすぎない、ということ? これは、ジジェクが批判している(たぶん大澤もともに批判している)「ポストモダン相対主義」ではないだろうか。真実の唯一性からニヒリスティックに距離を置き、その「政治性」を指摘することの帰結は? リバタリアニズム(みんなそれぞれ好き勝手に歴史作れば?)か、多文化主義(それぞれの集団の解釈を尊重しましょう)か。前者はもちろん、地獄なジャングルを招く。後者は、メタルールを、各々のルールを持った集団同士が共生するためのルールを暗黙に強制する。大澤がハーバーマスデリダの対立の表現として説明しているものだ。

歴史が端的な事実の積み重ねではなく、現在からの解釈によって作られるものだ、という認識は、ごく一般的なものだし、わりと有用な認識だと思う。んで、大澤の話が面白いのは、私たちの選択のうちでも、ある根源的で特殊な選択が在る、という点に関するものだ。大澤はカントを引きながら「先験的選択」について述べている。例えばそれは、愛において典型的だ。私はあなたを私の意志において選んだが、もちろん私は私の心を自由に操ってあなたへの「恋愛感情」を存在せしめたわけではない。私は私があなたを愛していることに気付いたのだ。しかしなおかつ、私はあなたを自由意志において選んだ、と言わねばならない。いやー、別に自分で選らんだわけじゃないっすからー、とか言っちゃまずい。神について、同じことが言える。

というか、選べるならばそれは神ではない。聖書とコーランと仏典を読み比べてみて、妥当性合理性を比較検討して、よし、この神様を信じよう、というのでは、信仰が信仰たりえない。(それではまるで、仮説を比較検討する科学者ではないか)。私は、奇跡を通じて、神に気付く。神は、すでに、そこに、いたのだ。

私は神を選べない - 或いは、然し

私は神を信じない自由を持っている。でなければ、信仰が意志の結果となりえないから。ところが、神に気付いたときには、「信じない」という選択肢はすでにありえないものだ。だって、もう神を知ってしまった。
眠いのでこれまで。