原因という観念の超越性

ある出来事の起きた時点E1の意味が確定するのは、それよりものちの時点E2から振り返ってみたときである、という大澤の論に言及したのが昨日のエントリ大澤真幸『逆説の民主主義』 - 或いは、然し。E1、E2、Enといった出来事の連鎖が一定の説得力を持って記述されるというのは、どういうことだろうか。それらが何らかの因果関係を持っていると見なされるということだ。E1があったからE2があり、E2の故にE3となった。歴史はそのように語られる。無限に多様な裸の諸事実から、因果の連鎖をつむぎだすこと。原因は遡及的に構成される。では、この遡及的な構成は恣意的なものだろうか。歴史は「自由主義的に」再解釈されて当然なのか。昨日も書いたけれど、歴史は虚構である、というのはごくありふれた認識である。大澤が書いているのはその程度のことか? ここで主張すべきなのは、「それ(あなたが事実だと思っている歴史)は虚構にすぎない」ということではないはずだ。原因、という観念について考えてみる。それは一般には、科学的唯物的な観念だと考えられている。これと対になるのが、道徳的な観念としての責任だろう。自然界には無限につらなる必然的な連鎖としての原因-結果があり、そして自由な主体としての人間は、「そこから因果の連鎖が流れ出す場」としての責任を有する。しかし原因と呼ばれる何かは、それほど自明なものではない。極端な定義をするならば、出来事E1に時間的に先立つものは全て、E1の原因である。実際には、私たちは蝶が北京で羽ばたいたことを、ニューヨークの嵐の原因とは見なさない。とすれば、これは出来事間の相関の程度の問題だろうか。いや、おそらくここには、跳躍がある。原因とその他の諸状況との間には、不可解な溝がある。この跳躍なしには、抽象化や理論化、すなわち科学自体が成り立たないのではないか? 原因と責任という二つの観念は、対極的なものだけれども、一周回って重なり合う。(たぶん、純粋理性がそのままに実践理性であるというのは、そういうことだ)。私は先に、原因の遡及的な構成は恣意的なものだろうか、と問うた。むろん、それは好き勝手に為されるものではない。というか、恣に構成したと意識されるならば、それを必然的因果関係であるなどと思い込むことはできない。原因はやはり発見されるものでなければならない。歴史が単なる事実の羅列でもなければ、後から好き勝手に意味づけが可能な虚構でもないとすれば。歴史は、症候である。それは語らいの中に回収しきれない“そと”の周囲に渦を巻く。キリスト、デュシャンの便器、あるいは何でもいい何かを巡って。