自分には人間性が欠けているのではないか(という中学生的な甘い絶望感)

http://d.hatena.ne.jp/purr_purr_purr/./20080729/1217347135を読んで、思い出してしまった。ここで自分の小学生時代のエピソードを詳らかにしたりはしないけど(恥ずかしいからというより文章にするのがメンドクサイから)、私は自分の過失で他人に損害を与えてしまったときに「弁償しなきゃ弁償しなきゃ」と思って、ポケットに小銭を入れてうろうろしていたことがあった。ところで、道徳教育は問いの形式を取る。「○○の場合は謝りましょう」とは言わず「こんなとき、あなたが△△の立場だったら、どんな気持ちになりますか?」みたいな。主体は問いへの答えとして超自我を打ち立てる!とかいう小賢しい話は置いておいて、私はいつもいつもこの種の問いに苛立ち、自明で自然な「人間性」を称揚するマトモな人間様たちに劣等感(優越感かもね)を覚える。なんでちゃんと私を訓練してくれなかったのか。「そういう場合は金銭的賠償よりも先に、謝罪の気持ちを伝えるのが『正常な人間』の作法です」って、教えてくれないと分からないじゃんかよ。ちゃんと、ちゃんとした人間のフリをする方法を教えておいてくれれば、私はあの時やあの時に、恥をかかずに済んだのに。問題は、恥ずかしい思いをすること、だ。恥はかきたくない。そうですよ、今私が気にしているのは相手の気持ちなんかじゃなくて、自分の体面ですよ。まあ、こんな「私は欠陥のある人間です」告白など、中学生的自意識の為せる業であり、「俺って悪い人間で生きてる価値も無いんだ」なんて、青臭い文学青年的自意識の戯言って気もするわけですが。もう問わないで、ルールを教えて。「問い」と「教えること」との関連については、考え始めると果てしないけれども。石板を持ってこい!(←このフレーズは、ググればネタが分かるね)