名について

犬は名を知らない。おれはタロー、あいつはシロ、こいつはポチ、などというふうに認識しているわけではない。彼は名を聞いているわけではない。ただ、呼び声を聞いているのだ。人の発する音声のなかから、自分への呼びかけを聞き分ける。振り向き、走りより、匂いを嗅ぐ。犬は、世界から切り離されてはいない。彼は全体に属している。人は名を知っている。ぼくは太郎、あいつは次郎、こいつは三郎。私はたまに、名を聞き間違える。ああ、わたしじゃなくて、あいつを呼んだのか。なにしろ、わたしの名は、他人のものでもありうる。わたしはたまたまMaryかもしれないが、Elizabethと名付けられる可能性もあったし、Kateだったかもしれない。それは、言語である以上、反復可能性に侵されて在る。それはかけがえないものを捉えるべく発せられるのだが、決して完璧には目指すものを捕捉できない。言い表されたものは、つねに代替されうる。その意味では、名は言語の特権的な構成因子ではない。シニフィアンシニフィアンへと差し向けられるのみである。そのようにして、人は世界から切り離されている。全体性の喪失、象徴秩序への参入。呼び声は、その尊さをとうに失っている。だが、やはり、名は言語経済のなかで特権的な位置を占めている。あの純粋な呼び声が、残響する場。翻訳不能な残滓。可能世界へとつらなる間隙。わたしについてのすべてを記述したとしても記述しきれない何か、すなわちわたしがAさんであったりBさんであったりした可能性はあっても、依然としてわたしが「この」わたしである、という事実を含めてわたしを指し示す言葉は、名をおいてはありえない。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが、そのユダヤ神秘主義的で謎めいた論考『言語一般および人間の言語について』において述べているのも、このことについてである。言語が伝達するのはそれ自身の伝達可能性である、と彼は言う。どういうことか。言語が伝達するのは、その伝達内容ではないのか。それはその通りである。伝達すべき内容があり、それを乗せたメッセージがあり、相手に届き、コードに基づいて解読され、内容が伝達される。哲学者が問題にするのは、この記号論的伝達モデルを論理的に徹底した場合、矛盾が発生する、という点である。メッセージの送受信に先立って、わたしとあなたはコードを共有していなければならない。それが無ければ、言葉が言葉として意味をなさないだろうから。しかし、どのようにして共有できるというのか。コードの共有こそが伝達の前提であるときに、前提となる当のものを、どうして運搬できるのか。手紙の開封に必要な復号鍵が、その封筒にしまわれているとは。だから、言語が伝達可能であるならば、つまり、言語が言語であるならば、それが伝達するものはそれ自身の伝達可能性にちがいない。言語は、それであることによってそれである、という自己言及的構造として在る。つねにすでに言語の内側にいるわたしたちからすれば、この構造は、ほころびなく閉じられている。言葉の絶え間ない流れ。言語が存在することの奇跡は、その不可能性は、隠蔽されている。しかしながら、あなたはいとも簡単に、言語の破れ目そのものを口にしてしまう。名を。ベンヤミンはそれを、神の言葉だと述べている。なるほど、言語の限界が世界の限界と一致するなら、そして世界の外部性をそう呼ぶなら、名はまさしく神の言葉であるといってよい。純然たる呼び声の痕跡が、そこに宿っている。それ自身を伝えることによってそれ自身が伝わりうるものになるという跳躍、要するにそれは、あなたが呼びかけに振り向いてしまった、ということにほかならない。だけど、あなたはすぐに不安になる。あの声は、本当に、わたしを呼んだのだろうか。かんちがいだっただろうか。彼らが本当に望んでいるのは、何なのか。答えは無い。仕方がないからあなたは、あなた自身の存在を賭けて、そこに意味を在らしめるはめになる。名において、言語の起源が、象徴秩序を外部から駆動する車の音が響く。名は、倫理において決定的な意味を持つ。他者を、手段としてのみならず目的としても扱うとは、どういうことか。名を持ったものとして扱うということである。かつてわたしがそうであったように、呼びかけられて、召還されたものとして。このように言ったとしても、なんら実質的な倫理的規則が導きだされるわけではないが、そうだとして、ほかに倫理を基礎づける手だても見当たらないのだ。他者の謎は問題ではない。あなたやあの人やこの人に、たいした謎は無い。それこそ、科学的に解明されるであろう謎しかない。問題は、このわたしである。あなたはわたしを呼んだ、わたしは自分が呼ばれたと思って振り向いた、それなのに、あなたの視線はあのとき、わたしの横をかすめて他の誰かを探していたのではなかったか。今はもう、思い出せない。