風琴工房「記憶、或いは辺境」@池袋シアターKASSAI

先週の土曜日夜に見てきた。役者も巧かったし、面白かった。風琴工房の公演を見るのは3度目。

舞台は1945年、樺太。当時、日本統治下にあった朝鮮。戦時下の樺太には日本人も朝鮮人も同じ日本人として労働に来ていた。日本の敗戦によって朝鮮は日本国の属国ではなくなる。しかし、樺太ソビエトに侵攻され、その関係で、日本人は内地に帰ることができたが、主に南朝鮮の人々は帰ることが許されなかった。「記憶、或いは辺境」はその歴史的事実を背景とした、とある日本人一家と朝鮮人たちの友情と愛情の物語。個人のちいさな営みが、大きな歴史の矛盾にすりつぶされていく姿を描いた詩森ろばの代表作です。

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軸になっているのは、国家の障壁に隔てられた恋愛の物語であり、運命に翻弄され引き裂かれる男女、という古典的なもの。しかし代表作の再演というだけあって、しっかり作りこまれた芝居で、その引き裂かれ方のややこしさというか、重層的な疎外みたいなものを巧みに描き込んでいた。まずは侵略した国・日本があり、侵略され強制的に樺太の炭鉱に連れてこられた朝鮮人がいるのだが、戦後には樺太で生まれ育った日本人もまた故郷喪失者となる。朝鮮人への差別、植民地主義というものがまずあるのだけれど、そこで、たとえば朝鮮人を「日本人よりも日本人だ」と褒めること、「日本人のために働いてくれたんだ」とかばうこと、の歪み。この日は終演後にポストパフォーマンストークということで、脚本演出の詩森ろばと劇作家・小里清の対談を聞くことができたのだけれど、その中で「理髪店という空間の、演劇的なポテンシャルはすごい」という話をしていて、なるほどと思った。2時間くらいの全編が、樺太にある理髪店の中で展開し、舞台の中央には散髪用の椅子がひとつ、観客のほうを向いて置かれている。観客のほうを向いているといっても当然「物語内」ではそこに鏡があるわけで、髪を切るものと切られるものは鏡越しに対話するのだが、結局役者は客席に顔を見せながら演技ができるということになる。小里氏は「ハサミという凶器を持ったものに身を委ねるという奇妙なシチュエーション」や「鏡を介して会話するという間接性」といったことを指摘していた。この芝居のクライマックス、もう永遠に会えなくなるかもしれないその別れ際で男が女の髪を切るシーン、ついにやっと胸のうちの想いを伝えるというベタな展開なんだけれど、そこでは役者二人が客席を見ながら視線を決して交わらせることなく長い二人芝居をする。ありがちな展開とは言えるけれど、しかしありがちな感じに着地することなく、私たちの感情をありがちなところに落ち着かせてくれない、磨き上げられた脚本であり、そしてこの着地点の不在が、平行線を描く舞台上の男女の眼差しという演劇装置によって象徴的レベルでも表現されるという仕掛け。暗転、ここで終わりかと思うが、しかしさらにワンシーンが付け加えられる。ただ一人、樺太に[残ることを選ぶ / 取り残される]朝鮮人。ラストシーンでは朝鮮語が話され、観客は左右の柱に映写された字幕を読むことを強いられる。どこにも収まらないままで終幕。良い芝居を見た。