宮崎学「ヤクザに弁当売ったら犯罪か?」

昨今の日本社会における暴力団排除の流れを批判する書。悪い奴らを排除するのはイイコトだよね、とか言ってる場合じゃないだろ、という話。国家がアウトローをいかに活用しているか、という話題は以前に書いたが、そのへんの興味があって読んでみた。近代国家はならず者を飼い慣らすことで経済を潤滑に回し、歯車の遊びを保ちつつ権力を作動させてきたのだけれど、ネオリベ以降ということになるのだろうか、近頃は無法者を囲い込まずにガツガツ排除しにかかっている、ような気がする。

ヤクザに弁当売ったら犯罪か? (ちくま新書)

ヤクザに弁当売ったら犯罪か? (ちくま新書)

正直あまり読み応えのある本ではない。それなりに取材はしてるんだろうけど、衝撃の事実があぶり出されるノンフィクション、てわけでもなくて、こんな事例やあんな事例が、というあまり深くない話が書いてある。(おおむね当たってるんだろうとは思われるが)それほど綿密な考察を経ずに、警察の天下り先確保だ、官僚の利益拡大だ、といった批判がなされる。広大なグレーゾーンを残した法律・条例のおかげで、警察はウハウハですよ、と。
後半では、治安維持法マッカーシズムを引き合いに出して、ヤクザ排除とこれらとの類似点が指摘される。それで終盤に引用されているのがマルティン・ニーメラー牧師のアレ*1だったり、「私は君の言うことに賛成しないが、君がそれを言う権利は死んでも守るつもりだ」だったりするので、実に耳タコな主張なんだけれども。ヤクザを消し去って善良な市民だけの社会を作りましょう、という論理は拒絶せねばならないという点では同意する。

暴排条例や暴排要綱は、なんら刑法上に規定のない「ヤクザとの交遊」を警察の「認定」というほぼフリーハンドで「犯罪に準じる」ものとして、処罰の対象とする。処罰にいたらなくても、市民が一度、「交際者」と認定されれば、社会的信用を失い、職場を追われ、銀行口座やクレジットカードも解約され、住宅ローンも解約されるなど広範な制裁を受けることになろう。(p.13)

それでは、暴力団排除のあおりで、ヤクザをやめた組員を、警察やその外郭団体ともいえる公益法人の暴力追放センターはどう取り扱っているのだろうか。
暴追センターの「就業支援」の実態はお寒いかぎりで、すでに社会復帰させた実績を公表すらできなくなっているほどである。警察のほうはというと、ヤクザをやめても五年間は「元組員」としてヤクザに準じる扱いをし、社会復帰を助けるどころか足を引っ張ることに躍起となっている。(p.129)

「暴排授業」では、工藤會を名指しで「犯罪組織」のひとつとして映像をみせ、「資金を集めるため、甘い言葉で違法な薬物を勧めたり、無料サイトで未成年に接触し、組への加入を勧誘したりする実態」を説明しているらしい。
私のようなヤクザの家に生まれた生徒のことをどう考えているのかはあえて問うまい。しかし、一番重要なのはヤクザがどれだけ恐ろしいかといった恐怖感を教え込むよりも、何故ヤクザが存在するのか、どうすればヤクザという人生を選ばずにすむのか、根本を考えさせるのが学校教育の役割ではないだろうか?(p.158)

今年一月から、さまざまな場所で暴力団排除条例・暴対法改正についての発言をしてきたが、「けっして暴力団を擁護するためではない」という趣旨の前提条件を付けたうえで話を始めたことがあった。そうしなければ聞く耳を持ってもらえないと思ったからである。しかし、前提条件を付けることに、逡巡しながらの発言でもあった。いっそ「暴力団を擁護してなぜ悪い」と居直ったほうがすっきりしたことだろう。(p.186)

消毒して消毒して消毒しつくしたら世界が平和になると私たちが考えているかのように事態は進む。要因の一つとして、本書で指摘されているような警察/官僚の利益確保という「世俗的な」ものはもちろんあるだろう。しかしこれはまだ不十分な分析で、もっと深い理由があるはずであり、それは例えば「炎上」案件、すなわち今までは「悪いことだけれど、パブリックにならなかったから特に叩かれなかった」ような行為がネットの明るみに引きずり出されてワラワラと寄ってきた大衆が嬉々としてこれをバッシングする、という事例にも通底しているはずだ。引き続き考えたい。

*1:「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった…」