鵺的『荒野1/7』、形式と実質の倫理的反転

8/7〜8/12、渋谷ギャラリールデコ5にて、鵺的第5回公演「荒野1/7」。土曜日のマチネで見た。ので、もう1週間たってしまっているけれど、感想を書きとめておく。もう終了してるので無論ネタバレありで。鵺的は、第1回公演「暗黒地帯」ですごく気に入って「不滅」「昆虫系」と見たのだが、「カップルズ」を見逃して、今回の「荒野1/7」。どれも面白かったので、ひとつ見逃していることが大変に悔やまれる。
幼い頃に離散した7人兄弟(男4+女3)が、長男の呼びかけのもと、一同に会する。その1時間15分程度を描いた芝居。舞台装置としては、というか舞台すら無いので、コンクリートの床面に直接、横一列に椅子が並んでいるのみ、背景美術なども一切なし。キャンセル待ちで入って最前列に座った自分は、役者と膝を突き合わせるぐらいの距離で観劇することになった。役者が一人また一人と舞台に入ってきて椅子に腰掛け、まっすぐに客席を見つめたままで演技し続ける。「虚構内」ではテーブルを囲んで7人が話をしているようなのだが、状況は抽象化され、誰が誰に向かってしゃべるときでも、役者はただ前を見つめてセリフを繰り出す。終盤には役者が一人また一人と舞台を去っていき、物語は幕を閉じる。ミニマルな演出で構成された、衝撃的傑作。ここで衝撃的という修辞を使ったのは、たんに傑作であることを強調したいがためではなく、いや傑作であることも強調しておいていいのだが、私が個人的に本当に衝撃を受けたからである。見ていて、実に、びっくりしてしまった。こんなことを、こんなふうに、正面切って描いてしまうだなんて。
もう少し物語の筋について述べておこう。序盤、兄弟離散の理由が明かされる。父が、母を、殺したからだ、と。兄弟たちはバラバラに里親に引き取られていき、その後ほとんど連絡をとりあうこともなく、他人として十数年を過ごしてきたのだ。兄弟たちのうち、離散した当時すでに物心をついていたものと、そうでないものがいる。よって、殺人事件について記憶があるものもいれば、その記憶がなく、里親を実の親と思い込んで十数年を過ごしてきたものもいる。さらに、この「妻殺し」の暴露に重ねて、長男は自身のみが知る秘密を明かす。父親すなわち妻を殺した男は、服役し、出所し、今どこで何をしているか分からないということになっているが、実は、俺は父と会っていた、と。その父親が今、病気で死にかけている。延命治療をしなければ死んでしまう。父を助けるべきか、兄弟全員で話し合って決めたい。
「母を殺し、家族を壊し、俺達を<人殺しの子ども>にした男。彼を救うべきか。」ーーこれがドラマの軸となる問いであり、そして長男は父を助けたいと主張する。常識的な解答は、そんな男を救ってやる義理は無い、というものであり、他の兄弟たちもまずはそのように意見するのだが、長男が当時の記憶をたぐり寄せるよう促すにつれ、事態は微妙なものになってゆく。俺たちは父親から虐待されたことがあるか。一度もない。むしろ、酷かったのは母親じゃないのか。俺の背中にはミミズ腫れがある、三男の尻には痣がある。母親に虐待されたからだ。父は確かに呑んだくれのどうしようもない男だったかもしれないが、しかし母親から子どもたちを守ろうとしたのではないのか。殺してよかったということはない。父を庇うつもりはない。しかし、俺たち兄弟は、父と母がどのような人であり、何が起こったのか、知る必要があるのではないのか。これは裁判じゃないし、証拠をもって事実認定を争う場ではない。危篤にある父に対して何をしてやるのか、何もしないのか、子どもだからこそできる、判断があるんじゃないのか。それを今、ここで話し合いたい。
次男以下の兄弟姉妹たちにとって不満なのは、なぜ長男は今まで父親と面会していたことを黙っていたのか、なぜ長男は父と母の真実について黙っていたのか、という点だ。このことを問い詰められたとき(次男がシニカルかつ論理的に長男を責めたとき)に長男が発するセリフが衝撃だった。「お前たちは、弱い」。今まで言わなかったのは、お前たちが弱いからだ。お前たちが成長するのを待っていた。だがお前たちは成長していない、年をとっても中身はあのときのままだ。お前たちが不幸なのは境遇のせいじゃない、人格のせいだ。強がらなくていい。お前たちは弱い、まずそれを認めろ。ーーこうしてここに書いてみても、これらのセリフは芝居を見ていない人にとってはほとんど意味不明だと思うが、実際芝居を見た観客の多くにとっても意味不明だったかもしれないし、そして、他の登場人物にとっても意味不明だった。だから長女は問い返す。「じゃあ、例えば私のどんなところが弱いの」。長男いわく「亭主に浮気されて黙っているようなところだ」。この会話に先立つ部分で、長女は「亭主に浮気されても、騒いだほうが負けみたいなところがあるし、何年も夫婦やってると、恋愛感情とは別のものになっちゃうのよね」などと「オトナでニヒルな」身の上話をしていたので、長男の回答はそのことを指している。普通に考えればむしろ逆で、亭主の浮気に耐えるほうが強い女ではないのか。黙って耐えずに泣き叫んだら、そのほうが強いのか。
一足飛びに結論を書けば、強くあることとは倫理的であることであり、ここで私が倫理といっているのは、(現代思想クリシェみたいになってしまうが)、自己の中で他なるものと出会うことである。倫理的であることと道徳的であることとは違う。浮気は道徳に反するかもしれないが、そのことはここで言う強さとはあまり関係がない。ここでは浮気を非難することが強さであると言われているようだが、浮気をすることこそが強さであることも、状況次第でありうるだろう。次男はシニカルに饒舌に論理を構成し、自分を貶め、卑屈になり、それによって自分を守る。その論理的正しさのただ中に、論理とは隔絶した倫理的命令が振り下ろされる。お前は弱い、それを認めろ。お前の中にある、お前ではないものを、法として打ち立てよ。このやりとりのあと、長女がグロテスクなエピソードを涙ながらに告白する。猫を飼っていた。その猫が自分にとてもなついていて、いじめても、いじめても、自分によってくる。ついには、その猫を殺してしまった。自分が猫に愛されているということが信じられなくて、愛を確かめようとして、相手を傷つけ、壊してしまったのだ、と。ここで示されているのは、愛されることを受け入れることと、倫理的であることとの相同性である。すなわち、愛することが「あなたの中に、あなた以上のものがある」と主張することであり、それを受け入れることが自分の中に自分以上のものを認めることであるとすれば、倫理と向き合うことも同じではないか。
長男が語る父親の記憶に、次のようなものがある。母から虐待を受けている自分たちに対して、父はあるとき、「なんとかする」と言った。その後、父が母を殺した時、俺は「ああ、オヤジは『なんとかした』んだ」と思ったよ。殺したことがよかったなどとは思わない、でも、親父は「なんとかした」んだ。ーー終盤、一番下の妹と二人きりになった舞台で長男が告白する。自殺を考えない日はなかったけれど、あのとき、親父が「なんとかする」って言ったから、俺は今まで生きてこられた。あのロクデナシで最低な父親にも、一本筋の通った何かがあったんだって思った。ーー父親は最低だった。道徳的に最低であり、他にいくらも解決法はあったはずなのに殺人という方法を選び、それによって子どもたちを守るどころか「人殺しの子ども」の十字架を追わせ、7人の人生を滅茶苦茶にした。それでも、そこに、倫理性があったとしたら。「一本筋の通った何か」、自分の中にあって他なるもの(実際、結果を見れば、虐待の問題はまったく父親の手に余るものだった)、それに言葉を捧げること、「なんとかする」と宣言することが、誰かの人生を支えることがありうる、あるのだと、この芝居は告げている。
この倫理的出来事には、形式(宣言すること)と実質(子どもを守ること)が反転し、形式こそが実質そのものになってしまうような奇妙な道筋がある。過去作品「暗黒地帯」の印象的なシーンを思い出してみよう。夫婦は、二人が住む住居の手抜き工事問題とそれに続く「差別」問題がこじれたことにより、危機に立たされている。ここでの夫の提案は冷静かつ論理的なものである。ほとぼりが冷めるまで、一時的に離婚しよう。そうすれば親戚への風当たりも減らせるし、時間をおいてから二人でやり直せばいい。ところが妻は全力でこの提案を拒絶する。離婚は、しない。あなたは大変なときにこそ私の味方になるべきではないのか。「形式的に離婚する」ことは絶対に認めない。ーー「形式的に離婚し、実質的には夫婦であり続ける」という作戦は合理的に見える一方で、妻の主張は実に不合理だ。ところが驚くべきことに、このシーンにおいて、正しい論理をしゃべり続ける夫は薄っぺらい嘘つきにしか見えない。妻がこだわる空虚な形式(たかだか書類上の婚姻)こそが、真理の様相を帯びる。言うまでもなくこの空虚な形式の別名は<欲望>であり、ある精神分析医は倫理をこう定義した、汝の<欲望>について譲歩することなかれ。
鵺的の作・演出を担う高木登氏ははてなダイアリーでブログを書いているが、思想的なことは全然書いていないので、どういう背景からこういう戯曲を書いてしまうのか、よくわからない。この作品はフィクションであるが、高木氏の母親を含む7人兄弟をモデルにしているという話で、そんな自分に近いところから素材をもってきてこんな抽象度が高くて恐ろしい芝居を作ってしまうだなんて、劇作家というのは謎であるなあと思った。