鵺的『幻戯【改訂版】』、遊郭の怪談あるいは性的関係の不在について

2/23昼、下北沢「劇」小劇場にて、鵺的 第六回公演『幻戯【改訂版】』をみる。昨年、この劇団の前回公演『荒野1/7』をみたときにも感想を書いた。前回はけっこう尖った抽象的な演出だったんで、これ以上進んだらアバンギャルドだよな、次どうなんのかな、と思ってたんだけど、今回はわりと具象的な舞台で、右側2/3くらいが畳敷きの部屋、左側1/3くらいが庭という形で古めかしい(時代設定は意図的にぼかしてあるようで、現代なのか数十年前なのか曖昧なのだが)遊郭の内部が表現されていた。内容としてはまったく期待に違わぬものであり、筆不精ブログ不精がひどすぎる昨今の私でもこれは何か書いておかねばという気分になりこうして久しぶりに文章らしきものを書いている、とはいっても観賞からすでに1週間たってしまっているけれど、しかし思い返してみてもすげえ芝居で、何しろ前半は「これ大したことないんじゃ」などと高をくくっていたのだが、後半でネタが明かされたところから大興奮、前半のアレコレはすべて伏線、罠だったことが判明し、デヴィッド・フィンチャーか!って思った。30代なかばにして童貞の小説家と娼婦が出会う話、ひとことで言えば性的関係についての物語だといえるが、このテーマを実に青臭く真正面から掘り下げていくのだから、もう、えらいことである。


冒頭、クミコという娼婦が自死したことが示されてから、時間軸はクミコと小説家(板倉)との出会いへと遡る。板倉は童貞であり、こーゆートコロに来るのも初めてなのだが、先輩の遊び人な小説家(黒崎)に無理やり連れて来られた、しかし無理やりとはいってもやっぱり自分で足を運んできたのだからそーゆーコトにも興味がないわけじゃないんでしょう、なんて言われてしまうわけだ。まったく童貞らしい潔癖さでもって、カネで買った快楽と寝ることを嫌がる男と、心と体は別なんだから、楽しんでいけばいいじゃない、と誘う手だれの娼婦。そこに現れるもう一人の娼婦、口を利くことができない女、フミエ。フミエは長い間この商売を続けながらも「割り切る」ことができない、だから「割り切って」仕事をしているクミコに違和感を覚え、嫌悪している。結局その夜、男は何もすることができないまま遊郭を立ち去る。ここまでで示される構図はいささか平凡であり、キャラクターはティピカルにすぎるように感じられる。チャラチャラした男、イジイジした男、仕事に慣れた女、慣れることができない女。
後日、板倉は再び遊郭を訪れ、クミコを指名する。彼は奇妙に晴れやかな表情で、こう語る。自分は今、フミエと同棲している、遊郭で出会った女がプライベートで男と会い、恋人になる、そんなありえそうにないことが、自分の身に起こったのだ、と。しかもフミエと自分との関係はまったくプラトニックなものであり、肉体関係は持っていないのだ、という。そして、肉体的な欲求を満たすために、クミコを買いに来たのだ、と。クミコは後ずさる。男の語っている理屈、心と体を分けて考えればいい、「割り切れば」いいのだ、という論理は、以前にクミコが諭したそれの鏡像にすぎないのだが、彼女は恐慌をきたして逃げようとする。しかも、フミエはこのことを知っているのだという。奇妙にグロテスクなシーンだ。男は実に「論理的」であり、クミコに対して「いや、あんたが言ってた理屈でしょ」とつっこむのは正当なことであると言えば言えるのだが、しかし異様な違和感があり、そんな違和感を観客に味あわせながらも二人は結局交わり、舞台は暗転する。
そして次の瞬間に舞台にいるのは、事を終えたあとの板倉と、フミエなのだ。
黒崎が、やり手婆(久乃)と相談をしている。クミコが客の男・板倉と店の外で会っている、さらには同棲している。当然ご法度だ、やめさせなければならない…。ラストシーンでは、板倉がクミコの供養のために再び遊郭を訪れる。「もっと強い人かと思ってたけど、意外と弱いところもあったのかもしれませんねぇ」と花を手向ける男。フミコはどうなったのかと問われ、「うちにいますよ」。


怖い。いろんなベクトルで怖いのだが、ひとつの解釈として、これは怪談であるとは言える。娼婦の人格が分裂し、片方は幽霊になって、本体が自殺したあとも男のもとにとどまり続けている。サイコホラーっぽい考え方をするならば、こうなる。男と同棲しているフミエは、彼の「真の愛は肉体関係とは別のものだ」という信念に応えるべく、いえでは彼と関係を持たず、彼が遊郭に行く時になると自分も出勤し、別の人格「クミコ」として彼に抱かれる。
性的関係なしの恋愛とは何か、抽象化していえば、形式なしの内容とは何か。先に述べたように青臭い問題設定なのだけれども、その核心は前回公演で扱った問題と同一ではないのか。身体と心、という問題機制は囮にすぎない。形式への固執を失った時に、すべてを失ってしまうことがある。だから、論理的に正しい話に騙されてはならない。性的関係は存在しない。けれど、それを離れた「実質」は、さらに存在しないのではないか。
私はテレビアニメというものを(テレビ自体ほとんど)見ないのでよくわからないんだけども、この芝居の作・演出をしている高木氏はテレビアニメのシリーズ構成(って何?)のようなマスを相手にしたエンターテイメント(だよね?)をも仕事としているらしく、そのような人が一方でこんな濃い作品を作り続けているというのは不思議かつすごいことだと思うが、むしろ、さすが、ちゃんとエンターテイメントもしているなーという感想のほうが正しいだろうか。次も楽しみにしております。