また、夜中にいきなりどっと、大勢と思われる、人の囃し声がどこかしらで立つ。あれも、聞くほうの精神状態によっては、妙な心地にひきこまれる。人通りの絶えかけた夜道で聞くこともあり、家の内に居て、不機嫌に黙りこんでいるのにも飽きて床にもぐりこもうとするその矢先のこともある。見れば出所が知れて、半分開いた二階の窓から真赤に酔った半裸が大童にいきまいている。そんな躁ぎもやや遠ければ面妖な影と映る。まして出所が知れない。見渡すかぎりそれらしい灯のもれる家もない。それでも二度三度と声が続けてあがれば、場所は分からぬまま得心もなろうが、ぱったりと止んでその後の余韻もない。空耳かと思ってやすむと翌日、ほど遠からぬ電柱に、黒枠の道しるべがあったり。
古井由吉「厠の静まり」『仮往生伝試文』