つまり事物を利用する観点からは、その形自体がすでに目的論を内包しているのじゃないかと。

三島 つまり事物を利用する観点からは、その形自体がすでに目的論を内包しているのじゃないかと。あなたの全然目的論のない世界において、純粋空間が瞬間的にあらわれるというために物を行使し、あるいは利用し、道具として使う場合には、目的論が内包されていちゃ困るわけだ、本来。なぜなら目的論というのは当然時間というものを内包するからだ。手段から目的への過程があるからだ。
『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』