自由論(上)

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ためらっているうちに、ずいぶん時間が経ってしまった。
後悔という感情だけは、とてつもなくリアルだ。嬉しいとか悲しいとか、好きだとか嫌いだとか、何が食べたいとか、綺麗だとか醜いとか、敬愛とか軽蔑とか、何が欲しいとか、そういうことはどれもひどく曖昧なのに、後悔だけは、ちょっと手を伸ばせば触れられそうなくらいに、そのねっとりとした手触りを想像できるくらいに、その質量を計測できそうなくらいに、実在感がある。
かつて、アメリカ合衆国マサチューセッツ州のダンカン・マクドゥーガルという医師が、魂の重さを測ろうと試みた。死ぬ直前の人間の重量と、死んだ直後のそれとを比較したのだ。はかりに乗せられた末期の肺結核患者は、水分の蒸発などによる質量の喪失を考慮に入れてもなお説明できない重さを、息を引き取ったさいに失ったという。1907年に発表された実験結果によれば、その重さは4分の3オンス、グラムにしておよそ21。むろん、この研究に科学的な価値など認められてはいない。けれども、それがもしも後悔の重さだとしたら、妙に信憑性があるように思われはしないか。約21グラム。それくらいなら、あってもおかしくない。
どんどん、取り返しのつかないことになっていく。取り返しのつくことなんてない、とも言えるのだけれど。あれも、これも、折り重なって、それも、どれも、降り積もって、どのみち、どうすることもできなかったのだとしても、やはり改めて、どうすることもできないのだと感じ入りながら、為すすべなく、呆然と、目の前にあるものを目の当たりにしてきた、1980年代前半以来の二十余年。
たとえば、人が十分に理性的で合理的であったならば、どうだろう。世界が平和に、誰もが幸せになるかもしれない。けど、こう想像してみると滑稽でもあるのだけれど、皆、自殺してしまうのではないか。昔々あるところに、超天才児が生まれました。その子は超天才だったので、生れ落ちた瞬間にすべてを完璧に理解し、自死を選んだとさ。めでたしめでたし。生きているのと、死んでいるのと、どちらが理性的で合理的だろうか。
ただ、われわれはここで理性と感情との対立について語っているわけではない。それらはどちらにしても、立派な動因でありうる。だが、意志の話となると、実に心もとないのだ。中学生だったころ、友人とこんな話をした。「やりたくないのに、やった」なんて事態はありえない。手を握りたくないのに、握った、などということはありえない。なぜなら、実際に手を握るという動作が行われたのだから、その人は手を握ろうとしたはずだ。さもなければ、手を握るという結果は起こりようもない。長じてから、ヴィトゲンシュタインという哲学者が20世紀前半に、そうした問題を哲学らしからぬ語り口で取り扱っていたことを知った。

しかし、我々が忘れてはならない一事がある。すなわち、「私が自分の腕を上げる」とき、私の腕は上がるのである。そこで問題が生ずる。私が自分の腕を上げるという事実から、私の腕が上がるという事実を引き去るとき、あとに残るのは何か、という問題である。(すると運動感覚がすなわち私の意欲であろうか。)
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン哲学探究』一部六二一節

あとに残るのは――残るものがあるとすれば、の話だが――、意志だろうか。しかしながらそれは、魂の重さよりもずっと測りがたいものではないか。少なくとも、21グラムよりもはるかに軽そうではある。われわれは、やった。というか、やってしまった。(それにしても、「しまう」という補助動詞は味わい深い。動作の完了を意味するだけでなく、その結果についての不本意さや困惑を表示できるのだ)。何を意欲したのか。何かを意欲しただろうか。われわれが事々を為すという事実から、事々が為されるという事実を引き去ってみることができるならば、わかることがあるかもしれない。なのに、手元にあるのは、後悔の量塊ばかり。
ともかく、われわれはためらって、ためらいながらも何かをやってしまって、ここまで生きてしまった。ついでに、(ついでと言ってはなんだが)、もうしばらくは、生きるだろうし、もう少しだけ、何かをやらかす。

1. 出来事

2008年6月8日、秋葉原。白昼、歩行者天国に突っ込み数人をはねたのち、タクシーと接触して停止した2トントラックから降りた1980年代前半生まれの人物は、奇声をあげながらダガーナイフで周囲の通行人を、さらには駆けつけた警察官を、次々に刺した。数分後、取り押さえられた容疑者K。死者7名、負傷者10名。
「80年代前半生まれ」というテーマを掲げ、2008年の終わりに発表される本誌において、われわれはこの事件について何事かを語らないわけにはいかない。あらゆる切り口が考えられる。近年の日本における非正規雇用、若年層の労働問題。オタク、アキハバラ、コミュニケーション能力、自己承認欲求、非モテ。マスメディア、インターネット、犯罪予告。――これらのうちのいくつかについては、のちに議論することになるだろう。
さて、われわれは何から始めるべきだろうか。まずは、「この事件について語ること」の外へと、一歩しりぞいてみることから、だ。2008年6月12日付けの朝日新聞紙上で「自爆テロ」という形容を用いつつ事件について論じた批評家は、インタビューにおいてこう述べている。

論壇以外を見ても、今回の事件へのマスメディアの冷淡さは明らかだと思います。例えば「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)は、事件が六月八日にあったにもかかわらず、六月末の放送では特集を組みませんでした。討論すべき話題ではないという考えなのでしょう。全体的に見ても、今回の秋葉原事件はあまり語られていない。むしろ、語ることに対して私たちは自粛しなければならないというメタ言説の方が主流となっています。
東浩紀アキハバラ発 <00年代>への問い』

確かに自粛を求める言葉は多くあった。事件から意味を汲み出し、あるいは物語を透かし見るような態度への冷笑的な批判。もしくは事件を政治的に利用しようとしている、との非難。加害者に理解を示すような態度を、被害者を冒涜するものだとする糾弾。それらは、事件についての語りではなく、「事件についての語り」についての語りであった。ここでわれわれは、こうしたメタ言説への応答から、始めよう。尊い人命が不条理に奪われた惨劇を文章の題材にすることを、擁護しようというのではない。ある一つの出来事を通して社会を洞察するという営為は、いったいどのような構造を持っているのか。ある一つの出来事が時代を象徴するという事態は、いかにして可能となるのか。
個別事例と全体の傾向とは、別である。誰かが人を殺したのは、むしゃくしゃしてやっただけのことかもしれない。たとえば非正規雇用問題について語りたいなら、統計を見ればいい。その集合に属するたった一つの個体の行動に、なぜこだわってあれこれ言う必要があるのか。人殺しが登場してもしなくても、問題は問題として、そこに厳然としてあるはずではないのか。決して「平均」ではないものを「典型」として取り出すことを、何が許すのか。いかにして一つの事件、一つの行為が、象徴――「そこに無いものの代わり」としての役割を果たすのか。
まるで小説についてあれこれと批評をするように、実際の殺人事件について云々するのは不謹慎であるにちがいない。それはそうだ。しかし、いささか扇情的に、こう主張してみたくもなる。かの事件こそは芸術作品である、と。逆に、芸術という観念には、殺人事件が属する範疇の名称をそれとしたところで穢されるような類の値打ちなど、備わってはいない、と言ってもよい。
事件は、作品である。それは、<語らい>を引き起こすことによって、<出来事>として現れる。批評を通して、芸術が芸術たりうるように。私たちは、一枚の絵、一篇の音楽をもって、あるいはまた、殺人事件をもって、社会を、時代を、捉える。むろん、そこに捉えられるべき裸の真実があるわけではない。それは空虚な<出来事>として、水底に突如開いた亀裂のように、その周囲に渦を作り、世界を塗り替えてしまう。
われわれが念頭においているのは、芸術的事件(たとえばシェーンベルクの音楽)や政治的事件(たとえば68年5月のフランス)を同時に語るときのアラン・バディウであり、また、カント倫理学マルセル・デュシャンレディメイドについて同時に語るときのティエリー・ド・デューヴである。バディウは、バロック形式内部におけるハイドンの出現に言及しながら、<出来事>という概念を次のように説明している。

とすれば、この出来事と出来事が「それにとって」出来事であるものとを結びつけるものは何かと訝る向きもあるだろう。これら二つを結びつけるものは先行状況における空虚−不在−孔videである。どういうことか? それは、あらゆる状況の核芯には、その存在の基盤として、「状況に位置づけられた」空虚−不在−孔があり、それをめぐって懸案の状況の十全性[プレニチュード](あるいは安定したさまざまな多)が組織されるのである。
アラン・バディウ『倫理 <悪>の意識についての試論』

状況に位置づけられながらも、その状況の基盤となるような「空虚」。有名な事例として、マルクスがプロレタリアという名称によって指し示したものこそ、ブルジョワ社会の中心にあった「空虚」であったという。「ひとつの出来事の存在論的で基本的な特徴は、出来事がそれにたいして出来事であるところのものの状況的すなわち位置づけられた空虚−不在−孔を刻み込み、それに名称を与えることだ」。それを、指し示し、名づけること。何でもないもの、他なるものに、固執すること。
一方デューヴは、芸術とは固有名である、と論じる。それは作品が持つ性質によるものでもなければ、制度によるものでもない。(ダダイズムはその制度性をシニカルに告発したわけだけれど――ほら、こんなガラクタだって美術館に展示しさえすれば芸術作品ということになってしまうのですよ――、デュシャンは狭義のダダイストではない。) 芸術は、「これは芸術だ」と名指されることによって芸術なのである、と彼は言う。デュシャンという芸術家が、レディメイドと呼ばれる作品群を残している。もっともよく知られているのは、『泉』と題された便器だろう。自転車の車輪や雪かき用のシャベルなどといったなんの変哲もない既製品を、彼は芸術作品であると言い張った。それらはいったい、何を語るのか。

レディメイドはわれわれに、芸術の本質がどのようなものであるかを語ってはくれないが、それ以上に、芸術は本質を持たないとも語ってはくれない。それはわれわれを、自分自身の無知状態におきざりにしてしまう。それは、あるひとつのありきたりの物体、絶対的にありきたりの物体が芸術であるために必要十分な条件がどのようなものであるかを、われわれに語ってはくれない。だが、それは、芸術は条件なしに存在するとも語ってくれるわけでもない。それは、われわれを、われわれの無知と責任におきざりにしてしまう。レディメイドが何かを語ろうとすれば、そして実際、何かを語るのだが、それは芸術が見ることや知ることの次元にではなく、判断の次元に属しているということ、記述の次元ではなく、規定の次元に属しているということである。
ティエリー・ド・デューヴ『芸術の名において』

デューヴの議論は、この芸術の無内容な定義と、カントの導き出したあの定言命法とを重ね合わせながら進む。カントの定言命法においても、格律の実質的な内容はまったく示されない。ただ、その格律が普遍的な法であることを汝自身が欲しうるような格律に従え、という命令があるだけだ。倫理的に善を為すこととは法に従うことだが、驚くべきことに、その立法者は自分自身でしかありえない。この自己言及的回路のうちにしか、自由を見出すことはできない。判断してもよい、のではない。許可されているわけではない。判断せよ、という命令の逃れ難さだけがある。
「何でもいい何かle n’importe quoi」を為せ、――これが芸術に課せられた格律であるという。それ自体がポジティブに措定されるわけではない、空虚−不在−穴、「何でもいい何か」が瞬き、<出来事>が生起する。われわれは、指差し、判断をくだす。記述するのではなく、規定する。秋葉原の事件は、われわれの世代が抱える問題のうちのいくばくかを象徴するものであった、と。

2. 豆腐屋と鹿と奈良奉行

容疑者Kが犯行前に、ネット上の掲示板でみずからの計画について書き込んでいたことから、事件の後、ネット上での犯罪予告への関心が高まった。予告.inhttp://yokoku.in/)などという犯罪予告収集サイトが立ち上げられて話題になったり(政府が犯罪予告検知ソフトを数億円かけて作る、と公表された直後に、このサイトの製作者はその仕事を一人で数時間でやって見せたのだった)、犯罪予告をして逮捕される者がいたり、その逮捕の是非を巡って言論の自由だの犯罪の予防だのといった議論が戦われたりもした。
小学校で小女子を焼き殺す、などと掲示板に書き込んで、威力業務妨害の疑いで逮捕された人がいた。この事態は、われわれに奇妙な居心地の悪さや困惑やいらだたしさを覚えさせる。逮捕された当人は、実際に殺人を行うつもりなどなかった、あれは犯行予告などではない、という主旨の供述をしたという。これは信じるに足る説明ではある。確かに、その書き込みは「犯行予告のようでそうではない、性質の悪い冗談」と思える。しかしそれが冗談ではなく本気の予告であるという可能性がある限り、犯罪を予告された側としては対策を取らねばならないし、その結果として掲示板への書き込みが威力業務妨害と見なされるということも、理解できる。
「明らかに冗談としか思えない書き込みで逮捕されるなんて、言葉狩りだ」と怒る者もいれば、「具体的な学校名を書いた時点でアウトだ」と指摘する者もいた。しかしそもそも、「犯行予告ごっこ」は何のために行われるのか。楽しいからだ。コドモたちは、ちょっとこれは危ないかな、というところまでどきどきしながら踏み込んでみて、オトナをからかって、怒られないことを確認して、安堵とともに胸をなでおろし、してやったり、と笑みを浮かべる。われわれの居心地の悪さは、この悪戯のさなかに、オトナとコドモの目が合ってしまったときの感覚に似ている。罰を与えるほどのことでないのは明らかなのだけれど、罰を与えずにおくことができないのも明らかなのだ。
ところで、ここで言う「オトナ」とは、いったいどのような存在だろうか。古典落語「鹿政談」が考察の題材を提供してくれる。当時、奈良では鹿が非常に大切にされており、鹿を殺めた者は死罪になるほどであったという。ある朝、豆腐屋の店主が犬と見間違えて鹿を殺してしまう。お白州に引き出されることとなった店主。しかしこの被告人、なかなかに善良な人物であり、鹿を殺したのも故意ではないことから、慈悲深い奈良奉行はこの男を助けようと試みる。この哀れな老人に、減刑の理由となりうるような事情が――鹿殺しが大罪であるということを知らずにいることも致し方ないとみなせるような事情があったなら、厳しい罰を与えずに済むかもしれない。だから奈良奉行は、老人に善意の誘導尋問を仕掛ける。

豆腐屋六兵衛とはその方か。・・・・・・かなりの齢であるの。何才に相なる」
「へ、今年・・・・六十三で・・・・」
「ほォう、六十三か。不憫なものであるの。その方、生国はいずこじゃ」
「へ、奈良三条通り・・・・・・」
「コレコレコレ、その方、上を恐れるのあまり、気が動転いたしておるのではないか。心を鎮めて返答いたせ。生国、生れはいずこじゃ」
「へ、奈良三条通り・・・・・・」
「おゝ、これ・・・・奈良に生れ、奈良に育った者が、鹿殺しは大罪ということを知らぬはずはあるまい。その方、他国の者であろう。他国から、この奈良へ出でて商売をいたしておるものであろう、の? 前後をわきまえて返答をいたせ。生れはいずこじゃ」
「へ、親代々、三条通りでございます」
「頑稀なる正直者であるの。六兵衛、その方、さきほど、六十三才に相なると申したな。六十三才とも相なれば、耄碌をいたして、前後を忘却いたしたり、物がわからぬようになるというような病があるか」
「ここ、三、四年、鼻風邪ひとつひいたことございません」
「鹿政談」http://www.hi-ho.ne.jp/hga00161/daihon/text/sikaseidan.html

お奉行様は、豆腐屋に、サインを出している。密かにメッセージを送っているのだ。しかしあまりにも善良(というかマヌケ)なこの老人は、お奉行様の言葉に字義通りに答えてしまっている。むろん、ここで豆腐屋に期待されているのは、「奈良の生まれではないので鹿殺しが大罪になるとは知らなかった」とか「犯行時のことはよく覚えていない」というような偽証を口にすることである。そういった証言を引き出すことができれば、奉行は彼を無罪放免にすることができるかもしれない。ここで注目すべきなのは、奉行があくまでも密かにメッセージを伝えようとしていることだ。奉行が「適当な言い訳してくれれば無罪放免にしてやろう」などと発言することはありえない。さて、奉行は次の作戦に出る。鹿の死体を目の前にして、それを犬であると言い張り、さらに検察官(に相当する役職の人物だと思われる)にも、それを犬であると言わせるのである。

「ほう、ならば、その方、これを鹿じゃと申すか。ならば、奉行、相たずねるが、鹿ならば、角がのうてはかなわぬはず。この死骸に角があるか」
「これはしたり。ご奉行のお言葉とも思えませぬ。鹿は、若葉の候に相なりますると、若葉を食し、よって、角がホロリと落ちる。これを世に、こぼれ角、落し角と申す。また、落ちたる後を、袋角、世に鹿茸と唱え・・・・」
「黙れ! 何事をもって、その方がごときに、鹿茸の講釈をきこうや。〔…〕出雲! どうじゃ」
「はァ!」
「鹿か」
「はッ」
「犬か?」
「ハ、ハ・・・ハァ」
「鹿か。・・・・・・犬か鹿か」
「ウウッ・・・・・・イヌシカチョウ」
(同上)

かくして、慈悲深い裁きにより、豆腐屋は無罪放免となる。この種の美談は、いくらでもあるだろう。法の「人間的な」運用によって、バカ正直な善人が救われる。考えてみたいのは、奉行はいったい誰から隠れて、ああしたメッセージを伝達しようとしようとしたのか、ということだ。
その場に、奉行よりも上の役職の人間がいて、法を恣意的に運用していることがバレては不味かったのだろうか。そんなわけはない。奉行が法を捻じ曲げて善人を救おうとしているのは、(救われようとしていた当の本人以外にとっては)あからさまであったのだから。あるいは、鹿を前にしての明らかな嘘、「これは犬だ」という発言は、いったい誰に向けて為されたものなのか。なぜ「犬だ」と念じるだけではダメで、言語化されなければならないのか。
奉行がその視線を気にし、「犬だ」という証言が差し向けられたその場所にいる何者か、それが先ほどの話で言う「オトナ」であり、<他者>である。それは具体的な誰かではないが、圧倒的に私たちを支配している。社会制度や権力者に重ねあわされて現象することは多々あるはずではあるが、それらに還元されはしない。奈良奉行は、ただ直接に彼の権限によって罪人を許すことはできない。<他者>の目を盗んで、<他者>には「犬だ」と思い込ませておいて、豆腐屋を逃がしてやらねばならなかった。その場にいた人間は誰もが、その死体が鹿のものであることを知っていたが、<他者>にだけは知られては不味かったのだ。
小女子殺人予告犯は、<他者>の視線の中でふざけて踊ってみせるゲームを仕掛けたのだが、何を測り間違ったのか、法の手によって裁かれるはめになった。社会のルールには在る程度の遊びが、グレーゾーンがある。法の運用は適度に厳密さを欠いているべきだ。われわれはこの事実を、さしあたって賞賛も否定もするつもりはないが、ルール違反が密やかに行われることは、「健全な社会」にとって極めて重要だ。規則違反はこっそりやってもよい、だが少なくともうわべだけは従順なふりをしなさい。この空間の中で、「犯行予告ごっこ」の奇妙な快楽が可能になる。

3. 社会的現実そのものを構造化する「幻想」の危機における<他者>の不確かさに対する身もだえとしての炎上

炎上について考えてみたい。ネット上の群集が、一つの話題を集中的に燃え盛らせる、あの現象だ。その一面を、以上に述べてきたような<他者>の概念を鍵にして、読み解くことができるのではないか。ネットイナゴという語はそれほど一般的ではないだろうから注釈を加えておが、このスラングは、炎上と呼ばれるシーンで大いに活躍する不特定多数を指すものである。彼らはべつだん申し合わせをしているわけではないが、どこからともなく(といっても、2ちゃんねるや何かが震源だったりはする)巨大な集団として現れ、似たような言動を取り(といっても、彼らの存在のすべては掲示板やコメント欄に書き込まれるテキストデータでしかないのだけれど)、名も無き個人あるいは有名人に制裁を加え、やがて消えてゆく。
例を挙げれば、オタクの集まるイベントで働いてた人がこっそり「オタきもい」と言ってもたいして問題ないし、牛丼家で働いてる人がこっそり食材を粗末に扱って遊んでもたいして問題ないし、未成年がこっそり酒を飲んだりタバコを吸ったりしてもたいして問題ない。問題だけどたいして問題ではないこと、悪いことではあるがたいして悪くないことが、世の中にはたくさんある。そしてそれらは、密かに行なわれなければならない。
たとえばあなたが中学生であるとして、あなたが学校で漫画雑誌を読んだり菓子を食べたりしてもたいした問題ではない。教員もそれを知っているとしよう。だが、あなたは絶対にそういう行為を教員の目の前でやってはならない。彼のメンツを潰してはならない。歩行者が信号無視をしてもたいした問題ではない。だが、交番のすぐ前の交差点では、青になるのを待つべきである。黙認と容認の間には致命的な差異がある。この差異はくだらないといえばくだらないものなのだが、しかし社会はこれを簡単には放棄することができない。<他者>に隠れて行為しうること、これはどうしても重要なことだ。
炎上のひとつのパターンは、「<たいして悪くないけど悪いこと>をしたことがネット上で明らかになり、叩かれる」というものである。このタイプの炎上を巡って必ず出てくるのは、「そんなには悪いことではないのだから、そんなに激しく叩くことはない」という意見と「悪いことをしたのだから、叩かれて当然だ」という意見との対立である。どちらの意見も正しいと言えるだろう。それは確かに悪いことであるが、そんなに悪いことでもないのだ。<たいして悪くないけど悪いこと>がこっそり行なわれているうちは、私たちはそれを黙認しうる。だが、それが大っぴらに行なわれれば、私たちはそれを見過ごすわけには行かない。メンツを潰されてはたまらない。こっそりやってれば咎められないような行為がネット上に(本人の意思で)晒される、という事態は、私たちを当惑させる。悪いことは悪いことなのだから、懲らしめるべきだ。いやしかし、その程度の悪さは誰だってやっている…。
あるいは、こっそり隠れていようがどうしようが、規則を完璧に一律に徹底したほうが社会は「健全」だろうか。それこそ、法治国家のあるべき姿なのではないか。恣意的な運用を一切排した、ルールに基づく支配。それはおそらく非人間的な状況であろうが、別に非人間的で不味いこともないかもしれない。どうだろうか。
インターネットの普及が、「うわべ」と「こっそり」の間を、パブリックとプライベートの境目を、奇妙な形に捻じ曲げてしまった。炎上は、この捩れがもたらす混乱として在る。私が居酒屋で友人に話すならば何ら問題にならないような話も、ブログに書けば炎上の火種になる。では、居酒屋でその話を聞かされた友人は、私の悪事を咎めなかった不道徳な人間として責めを負うべきなのか。出火元を叩く「ネットイナゴ」がもしもその友人の立場だったら、その場で私を咎めただろうか。では、ネットで公開したことが問題なのか。ネットはパブリックな場であり、私的で反社会的な内容は書かれるべきでないのか。完全匿名で叩かれないように書けばよいのか。匿名でならばやってよいが顕名/実名でやってはならないこと、が存在するのか。ネットで「本音」を聞き出してはいけないのか。芸能人やアルファブロガーが書くと駄目だが、無名の個人ならば書いてもかまわない内容が存在するのか。
新たなメディアの普及がもたらした、公共空間の変容。荻上チキは「ウェブ炎上」について考察した著書のなかで、ウェブのもたらす「可視化」と「つながり」がサイバーカスケードあるいはさまざまな過剰さを出来させる、と論じている。あまりにも多くのものが見え、あまりにも多くのものと繋がりうるインターネットにおいて、不特定多数による「道徳的な振る舞い」は、極端に過剰なものとなる。

ここで筆者は、「道徳の過剰」とも呼ぶべき事態に対して、懸念を示しておきたいと思います。特に、道徳の部分的完全実行とも呼ぶべきケースに対してです。道徳というものは、時に非合理なルールを人に押し付ける「強者のルール」として作用しますが、それと同様に「道徳」を理由にしたカスケードもまた恣意的で強圧的なものとして作用することがあります。
荻上チキ『ウェブ炎上 ネット群集の暴走と可能性』

この人文系ブロガーの主張はごくまっとうなものだが、しかし、われわれにとっては物足りないものだと言わざるをえない。法や道徳が人々を過剰に監視し縛ることは避けるべきであるとか、ゆるやかさを、曖昧な領域を確保しておいたほうが良いだとか、そのような話では不十分だ。「そんなに悪いことではないのだから、道徳を過剰に振りかざして罰しようとする行為はやめるべきだ」――なるほどその通りではあるが、メンツを潰された<他者>が怒りを噴出させるさまを、非理性的だと切って捨てることはできない。炎上に荷担する人々、ネットイナゴ個々人を擁護するつもりなどまったくない。だが、そこには何がしかの必然があるにちがいない。
こだわらなければならないのは、小女子事件が引き起こした、あの当惑である。「犯行予告ごっこ」には、淫らなところがある。ふざけすぎたコドモが、オトナとの距離を測り間違ったときの気まずさ。<他者>は、ただ上からの圧力として存在するわけではない。あるいはまた、人間たちの関係性を取り持つ媒介のようなものとも異なる。

「<他者>の非在」から、すなわち、<他者>は<現実界>の本質的偶然性を隠蔽する遡及的幻想にすぎないという事実から、次のような結論、すなわち、この「幻想」を中止しさえすればいいのだ、そうすればわれわれは「事物の本当の姿を見ることができる」という結論を導き出すのは誤りである。重要なのは、この「幻想」こそがわれわれの(社会的)現実そのものを構造化しているのだということである。
スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』

だから、<他者>がまるで存在しないかのように振舞う不届き者が現れたとき――いや、本当に存在しないのだけれど――、現実は恐慌に陥る。上に述べてきたようなウェブにおける炎上のある種の典型的な事例は、現実を回復しようとする運動にほかならない。誰だってちょっとくらいはヤバいことをしている。だけれども、表面的にはあくまでも社会的ルールに従っているかのように取り繕わなければならない。

つまり、社会的ゲームの参加者たちの間の暗黙の了解事項は、<他者>はすべてを知ってはならないということである。この<他者>の非知によって、ある距離が生まれ、その距離によって、いわばわれわれは息をつくことができる。すなわち、自分の行為にたいして、社会的に認められている以上の、補足的な意味を盛り込むことができる。まさにこのために、社会的ゲーム(エチケットの規則など)は、その儀式がどんなに馬鹿げていようとも、たんに表面的なものではないのである。<他者>が気づかない間だけ、われわれは秘密裡の戦争を続けられるのだ。<他者>がそれに気づいた瞬間、社会的絆は崩壊し、王様は裸だという子どもの指摘によって引き起こされたのと同じような、破滅的事態が生じる。<他者>はすべてを知ってはならない――これこそが、非全体主義的な社会領域の適切な定義である。
(同上)

今やわれわれは、奈良奉行所において「表面的には規則(鹿を殺したものは重く罰すべし)に従うこと」がなぜあれほどまでに大切であったのか、理解できるはずだ。死体を犬であると言いくるめる彼らのやりとりはまったく馬鹿げたものだったが――その場にいる誰もが殺されたのは鹿だと知っていた――、それでも意味を持っていた。守るべきものは、現実そのものを構造化する「幻想」だったのである。
「犯行予告ごっこ」の快楽は、露出狂的だ。レースのカーテンと曇りガラスを一枚へだてた向こうからの視線を感じながら、あられもない嬌態を演じてみせる。予告犯は何を望んだか。小学校に警備体制を敷かせ、保護者に恐怖を与え、パニックに陥る人々を覗き見たかったのか。この遊びの楽しみは、まったくそんなところにはない。そうではなく、<他者>との間合いに探りをいれ、ほら、これぐらいまでなら、まだ大丈夫じゃないか、と目配せを交わす快感こそが、その根本にある。<他者>は実に無能だ。しかし、われわれの現実は、それへと向けて構成されている。
ウェブにおける、公共空間のあり方が問われている。この空間の変容が致命的であったのは、いったいどこに<他者>の目が光っているのか、よく分からなくなってしまったことによる。ずっと以前から知っていたことだけれど、王様は、裸だ。かつては、王様の服についての話題を軽くあしらうことができた。ところが、もう、われわれは口ごもるばかりだ。ときおり、小女子をどうにかすると言って逮捕される者が出たり、たいしたことのない悪事をネットイナゴが殺到して叩いたりする。昔には戻れない。目の前には、解きがたい混沌がある。

4. 救済される資格、人間的たること

良識的な左翼の人々は、弱者の救済に熱心である。先の見えない不安定な非正規雇用という境遇にいた容疑者Kもまた、救うべき弱者の一人であったかもしれない。容疑者がトヨタ自動車子会社の派遣労働者であったことを知ったとき、雨宮処凛は「とうとう起きてしまったか」と思ったという。彼女が徹底的に抗おうとするのは、自己責任論に対してであり、「非正規雇用者やフリーターの若者はだらしない、というバッシング」に対してだ。「彼は毎日ツナギを着て派遣先の仕事場できちんと働いていた。怠け者ではないのだ。」(『アキバ通り魔事件をどう読むか!? 洋泉社MOOK』)
そう、怠け者ではないのなら、話は簡単だ。人々は皆、弱者に同情するだろう。がんばっても、努力しても、報われず、劣悪な環境から抜け出すことのできない貧者。若者に責任を押し付けようとする世間の欺瞞は明らかだ。「努力しているのにどうしようもない」なのか、「努力していないから自業自得」なのか。雨宮のような論者が戦っているのは、基本的にこのようなプロブレマティークにおいてである。だから彼女の筆は、たとえば次のようなフレーズで被抑圧者の悲惨さを強調する。「私たちはすでに、生存の権利すら奪われている。」――程度の問題をこのようにゼロイチで切ってみせる口ぶりに、歴史上で生存の権利が保障された社会などというものが存在したのか、と思わず冷笑したくもなるが、雨宮のような立ち位置からすれば、被害者の被害者性を強調して訴えることはことのほか重要な事項とならざるをえない。さらに、「働く意欲があるのに報われない人々」を眼差すときのこの勇ましさをもって「働く意欲がない人々」にも言及するから、ひきこもりやニートには過剰な意味づけがなされる。

すでにひきこもりと呼ばれる100万人が、労働を拒否して立てこもっている。ニートと呼ばれる85万人が、無言のままにストライキを起こしている。そんなふうにも見えないだろうか。一人の指導者もいないままに、誰の呼びかけもないままに、それだけの若者がこの社会に見切りをつけている。
雨宮処凛『生きさせろ! 難民化する若者たち』

「労働を拒否した立てこもり」などというイメージは、ひきこもりの実像とはかけ離れているように思われる。「働くべし」という規範を十分に内面化し、働きたくとも、部屋から出ることすらおぼつかない、というのが社会的ひきこもりの主要な症状ではないのか。それにしても、こういった形で「社会からひどい扱いを受けても、なんとか現実に抵抗しようとする若者」という図を描かなければ、労働問題へとコミットするモチベーションを奮い立たせることができないものだろうか。
ひるがえって、ニートについて語る本田由紀の態度は、もっとずっと温度の低いものである。統計的に見てみれば、「働く意欲がない人」は今も昔も一定数いる。一方で、「働く意欲があるのに働けない人」は増えている。これはすなわち、問題は若者の意欲ではなく、働き口の少なさにあることを示している、と論じられる。

つまり、もし若年失業に焦点を当てていれば、労働需給の客観的構造自体が注目され、労働需要を刺激し回復するための方策として何が可能なのか、という方向で取り組みが進められていたはずです。それが今や、失業者を定義上除外している日本版の「ニート」ばかりが強調され、「働こうともしていないんだから、本人が悪いんだろ」というような言われ方をすることによって、労働需要側の問題ではなく、労働供給側である若者の自己責任にすべてが還元されるような風潮が支配的になっているのです。
本田由紀ニートって言うな!』

ここでの議論は、「働く気がないんだろ」という声に対して「いや、働く気はある」と抗弁するのではなく、「働く気がない人は今も昔も一定数いるわけなので放って置いて、社会的対策としては<働く気がある人にポストを用意する>という方向で考えるべき」と返すものであり、非常に説得的であると言ってよい。だがわれわれが問いたいのは、あるときは「労働を拒否した立てこもり」「ストライキ」「サイレントテロ」などと過剰に意味を読み込まれ、またあるときには「労働政策がその対象とする必要のないカテゴリー」として脇に置かれる、この一群を巡っての問いである。「努力している/していない」「自己責任/社会の責任」という二項対立の片方に味方し論争することはさて置き、この問題機制そのものが当たり前のように依存している観念に、分け入っていかねばならない。湯浅誠が「意欲の貧困」という概念を提示している以下の論考は、この点で核心に触れている。

まず確認したいのは、通常用いられる「意欲がない」という言葉には、<主体>が密輸入されているということだ。つまり、「意欲が<出せるのに出さ>ない」と等価で使われている。そしてこの<主体>=意志こそが批判・帰責の対象となる。一方、本章の「意欲の貧困」は、この仮構された<主体>の外部において、それとは無関係に、<ない>ことを強いられた状態であり、通常の「意欲がある/ない」というコード自体が失効する、その意味で自己責任論の彼岸にある出来事である。
湯浅誠『若者の労働と生活世界 彼らはどんな現実を生きているか』

この論文において挙げられている「意欲の貧困」の事例は、湯浅自身が所属するNPO法人自立生活サポートセンターに助けを求めてきた人物のものだ。この人物は、なんらかの援助を必要とする弱者にはちがいないのだが、「努力しても努力しても苦境から抜け出せない」というような、一般に期待される「救済されるべき弱者」の像には当てはまらない。かといって、まったくの無気力でもない。この人物は、三ヶ月間も毎日ハローワークに通い、職を探した。なのに、せっかくありついた仕事を一日で辞めてしまうということを、四度も繰り返したのだという。こうした行状を、世間に対峙して擁護するのは難しいだろう。「この人はこんなかわいそうな事情があって、こんな大変な目にあっているのです、手を差し伸べるべきなのです」というように弁護することができない。どう考えても努力すべきシチュエーションにおいて、努力しない人間。言ってしまえば、この人物は、「ただ単に駄目な人」に見えるのだ。
新しい職場での一日目。多くの人が、困難を覚えるはずだ。それでも、多くの人はなんとかその日を乗り越え、仕事に馴染んでゆく。ところが、無理だ、できない、と感じてしまう人がいる。一日で辞めてしまう人がいる。この差はどこに由来するのか。

ではなぜ、多くの人たちは根拠もなく「できるさ」と思えるのかと言えば、それは「やったことがなかったけど、やってみたらできた」という成功体験を生育過程で積んできたからだろう。その機会は、家庭・地域・学校・以前の職場のどこか、またはそのすべてでくり返し提供されてきたはずである。逆に言えば、そのような機会に恵まれなかった人がどうがんばっても「できるさ」とは到底思えなかったとしても、それほど不思議でも奇妙でも、またありえないことでもない。
(同上)

どう考えても不可能であるようなことを、人は意欲しない。「意欲を持つこと」一般を裏から支えている条件としての「可能であるという確信」を持つ者と持たざる者がいる。これを持たざる者は、ある意味で非人間的に見える。意欲しないなら、何かをしようとしないなら、そこに自由はありえない。自由なしに、人間的たることを考えることなどできない。
劣悪な労働条件への抗議を表現するスローガンとして「私たちはモノじゃない」「ハケンをモノ扱いするな」というもの――この二つは日本共産党のポスターに書かれている文句である――がある。労働者をモノのように扱う酷薄な社会に抗して、人間を人間として在らしめよ、と。ところが、悪名高い自己責任論が跋扈する世間からわれわれへの呼びかけは、むしろ「モノのようになるな、人間的たれ」というものなのだ。「努力が足りない、自己責任だ」という理不尽な糾弾が問題であるのは、人間をモノ扱いしているという点においてではなく、人間を人間扱いしている点においてである。むろん、「努力しているのだから責任はない」という応答もまた、あまりにも人間的である。だから、自己責任論が設定する対立の外部において思考せねばならない。われわれは、「人間」を、資本主義への抵抗の砦で祭り上げたりはしない。「人間」を欲しているのは、向こうのほうである。われわれは唯物的条件に規定されて意欲を持ったり持たなかったりする、働く機械にすぎない、と主張しておこう。