自由論(下)

承前

5. 「物語」への没入

一日で職場を後にする者がいる一方、踏みとどまる者がいる。過酷な環境で3年間にわたって働き続けている人物が自らの体験を綴ったノンフィクション(ということになっている本)を、参照してみよう。2ちゃんねるに書き込まれ、ウェブ上で多数の読者を得、のちに書籍化された文章である。「最終学歴が中卒で、10年前後NEETやってた」という筆者=「1」=マ男が、残業代不払い当たり前のブラック会社に就職し、異様な人間関係が支配する職場で、幾度も「限界」を感じながらもなんとか苦境を切り抜けていく。「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」と題されたスレッドで語られた――特に鉤括弧を付けてこの語を用いよう――「物語」だ。
結論から言って、観察されるのは、労働者が自発的にまとう「どうしようもない社会に対する態度」についての美意識、あるいは公共の政治の消失、私的空間での政治への囚われ、などの事態である。そこにあるのは明らかに公的政治的法律的問題であり、このスレからの抜粋で構成された書籍のなかにも社会への抗議は見られるのだが、やがてはそれらも「物語」の背景としての諦念へと沈んでゆくようだ。次の引用は、マ男でなく「スレ住人」による発言である。

だいたい、労働時間の取締りとかゆるすぎるだろ・・・と
税金に関したら鬼のようにあれこれ税金使って調べまくるくせによ・・・
そして、労働基準法に違反がばれてもたいした罪じゃないし
脱税だと逮捕とかあるのにな
なめてんのかこの国の政治家は・・・税金とかだと血眼になってあれこれ探るくせによ・・・・
黒井勇人『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない

この「物語」を成立させる前提条件は、この諦め、シニシズムだ。怒りは、ない。「社会への憤り」だなんて、どうにも青臭いから。われわれは成熟する。社会とは薄汚いものであり、偉い人たちが甘い汁を吸い、俺たち――この価値観を典型的に表現するには、なぜ男言葉のほうが適切なのだろうか――庶民はここでどうにか生きるしかないんだよ、という諦念を身に付け、大人になる。今、問題としたいのは次のことだ。われわれは単に、不変に見える状況に仕方なく適応し、日々をしのいでいるだけだろうか。適応している、などという消極的な所作ではなく、むしろ「物語」への欲望が作動しているのではないか。
労働者は労働力を経営者に売り渡し、その対価を受け取る。こんな労働観は、人々に何の満足も与えない。労働とは、仲間と運命を共にする冒険旅行である。登場したときには主人公に敵対的であったキャラ、木村も、終盤に起こった大ピンチにおいては、主人公に手を差し伸べる。もちろん、素直でない態度(「ツンデレ」)で、だ。スレ住人の喝采が巻き起こる。「木村ベジータ化ktkr」。「なんだそのベジータは」。われわれが目にしているのは、まさしく「週刊少年ジャンプドラマツルギーである。敵が友に転じ、仲間たちは結束を強め、逆境に立ち向かう。なぜそんなブラックな職場に留まっているのか理解できないほどに優秀な人物であった藤田は、隠された過去を語り、スレ住人の涙を誘い、終盤には主人公に未来を託して去っていく。そのときの台詞は、読者に強烈なカタルシスを与えずにはおかないだろう。

「だけど、私は思うよ。私の力が100あったとしよう。この100の力は、とても大きい。
だけど、一つなんだよ。たった一つの100だ。
それに対して、20の力が5つあったら・・・それは、100を超えると思わないか?」
超えるわけがない。藤田さんという存在は、唯一無二なんだぞ。
「前回のプロジェクトは、まさにそれを体現化したものだった。
私は思ったよ。これなら安心して去れると」
一呼吸置く藤田さん。
「私のあとは、君が継ぐんだ」
(同上)

全俺が泣いた、と言うほかない。(「2ch小説」とも呼ぶべきこのジャンルは、「文学」としての性格と「友達から聞いたちょっといい話」としての性格との中間にあるという曖昧さのゆえに、「作品」としてはいささか陳腐にすぎるこうした台詞を読者にとって許容可能なものにする。これはプロの作家が書いた小説などではなく、まったくの素人が体験をつづった文にすぎず、また、スレ住人との会話でもあるのだから。女性的である「ケータイ小説」と、この男性的な「2ch小説」との比較研究は何がしかの意義を持ったものとなるだろうが、本論でその方向へ立ち入ることはできない)。そしてマ男は、次のように「物語」の大団円を演出している。

俺は奇跡を信じる気になったよ。
だって、スレッドタイトルが変わるんだもの。
ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない

ブラック会社に勤めてるんだが、まだ俺は頑張れるかもしれない』
に。
(同上)

言うまでもなく、ここで言う「頑張る」とは、劣悪な労働環境を改善しようという大きな視点を消し去り、艱難辛苦をともにしてきた仲間たちと、明日もまた航海を続けることを意味する。かように、われわれは政治を拒否する。美的でないからだ。いったい、この「物語」よりも強力に人を魅了するような何かが、政治の領野に存するだろうか。
このような美意識と社会体制との結びつきに関する研究として、イギリスの文化研究者ポール・ウィリスによる『ハマータウンの野郎ども』がある。中等学校卒業後にすぐに工場へと就職していく労働階級の子どもたちへの調査を通じ、ウィリスが提出したのは、社会に反抗的な若者文化が、逆説的にも、若者たちを資本制社会を底辺で支える工場労働へと自発的に向かわせているという洞察である。学校や社会にことさら反抗する落ちこぼれの「野郎ども」は、ある点では鋭く教育の欺瞞を見抜いているのだが、しかしマクロ的には奇妙な従順さでもって工場への就職を選択する。ウィリスによる分析は極めて繊細なものだが、要するに、ヤンキーが社会に出ると良き労働者になってしまう不思議についての話だ。
ウィリスが目にした状況とわれわれのものとでは大きな隔たりがあるが、一定の示唆は得られる。「社会の欺瞞への気づき」はあるのだが、それが社会変革に向かうことはない。ブラック会社に勤め続ける従順さ。それを、不況で転職先が無いだとか、役所が腐っていて悪質な経営者を取り締まってくれないだとかいう理由のみで説明することはできないだろう。俎上に上げるべきなのは、文化であり、美意識であり、「物語」への固執である。
阿部真大は、自らの一年間にわたるバイク便ライダー経験をもとに著した論考で、若者たちがワーカホリックに陥っていくメカニズムを分析している。なぜライダーたちは、最低賃金も保証されない、身体の危険も伴う労働に没頭してしまうのか。阿部はそれを、「経営者のトリック」などではなく、「職場のトリック」によるものだと述べる。たとえば、配車係(この仕事を担当するのは元ライダーであり、「自分たちをよくわかってくれている良き先輩」である)はライダーたちに、限界よりも少しきつめの仕事を出す。青梅まで1時間、などといった要求をなんとかこなしたライダーは、労いの言葉に達成感を覚える。あるいは、ライダーたちはすり抜け運転などの運転技術を路上で見せ付けることにより、高級車に乗った「あいつら」に対する優越感を覚える。バイクという趣味を仕事にした彼らが、いつのまにか苛烈な搾取の被害者となってしまう。

これは経営者がしかけたトリックなどではない。バイク便ライダーたちが自分たちで自分たちにかけつづけているトリックなのだ。わなをかけているのは彼ら自身……。ということは……。安心してください。だからって真犯人がバイク便ライダーだなんて言うわけではない。自己責任? そんな無茶苦茶なことは言わない。彼らはあくまで被害者なのだ。では誰が犯人なのか。
「犯人は職場だ!」と言わざるをえない。これは「職場のトリック」なのだ。
阿部真大『搾取される若者たち』

ここで作動しているのもまた、審美的な動機であり、情緒的な仲間意識であり、そして明確な悪者はどこにもいない。ならば、権力は、どのように機能しているのか。

6. 権力

「物語」とは、宿命の成就だ。正義が悪を倒して勧善懲悪し、異界からの旅人が貴種流離し、予言が現実になり、ベジータが仲間になる。「大きな物語の終焉」というフレーズが使い古されてからすでに久しい。宿命は、とうの昔に野蛮な前近代とともに埋葬されたはずである。だが、ウーリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズによって展開されてきたリスク社会論を批判的に検討する渋谷望は、それに懐疑的である。リスク社会論によれば、「啓蒙主義的近代」において宿命は集団的計画的な管理統制により葬り去られ、その後に訪れた「リフレキシヴな近代」においては、複雑化するリスクに個々人が対応せねばならない。求められる人間像は、ひるむことなくリスクを直視し、それを最小化するためにたえず最善の判断を行っていく人物、というようなものになる。

しかしここで重要なのは、リスク社会においては、リスクを人為的な努力で完全に抑圧し、否認することはできるというかつての幻想は捨てねばならないという認識である。換言すればリスクは原理的にコントロール不可能なのである。〔…〕
われわれがほとんど避けられないリスクに直面した場合、そこに発生する不安や恐怖はさまざまな仕方で処理されうる。もちろんリスク社会論が期待するように、リスクの回避に最善を尽くすのも一つの有効な方法であろう。しかしそうであれば、最初から起こりうる事態を運命として受け止め、腹をくくる態度も、それと同じ権利において、別の一つの方法といえる。
渋谷望『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』

宿命論が回帰する。言うまでもなく、単に以前に戻るというわけではない。アイデンティティの自明な前提としての古き良き共同体は、もはや存在しないのだから。リスクを計量し、リフレキシヴに自己決定せよ、という言説が通奏低音となるなか、「物語」が回帰する。再びマ男のスレに戻り、考察してみよう。次のレスは、「ネオリベラル言説」の代弁となっている。

気を悪くしたらすまんが、ニートの将来が暗いのは自分が積み重ねてきた負債のせいだろう?
自己責任もいいところじゃないのか?
同情の余地はないと思うんだが
黒井勇人『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない

勉強して、良い学校を出て、就職すれば、ひどい職場で苦しむリスクを低減できる。逆に、学歴も築かず就職する努力もせず自己研鑽を怠れば、ブラック会社サービス残業にあえぐリスクが増大する。自らリスクを考慮し、判断し、行動せよ。自由市場において、利潤を追求せよ。その結果は、自己責任である、と。ではしかし、努力すれば確実に対価が得られるだろうか。答えは否であろう。確率の問題だからだ。次に引用するレスは、「自分もSEだが、マ男の職場ほどひどいのは聞いたことがない」という書き込みに対する他のスレ住人の応答である。

勤める会社によってピンキリらしい
残業は標準装備としてもその後の待遇が会社によってガラっと違う
そういうとこに勤めれて自分は本当に幸せだったと考えとけばおkよ
(同上)

ここでの見解は、勤めた会社がブラックであるかそうでないかは、偶然的なものにすぎず、運によって左右されるだろう、というものである。実際、四大卒だからといって、必ずしも恵まれた環境で働くことができるわけではない。リスクの計算が不可能もしくは計算したところでそれほど確率が変わらないとしたら、幸運であった場合には「幸せだったと考えとけばおk」であり、不運であったならば諦めるしかない。いや、ただ諦めるわけではない。この地平において紡がれたのが、マ男と仲間たちとの「物語」であったのだ。それを支えているのは、運命への期待、必然性への憧憬ではないだろうか。自己責任論と、この偶然性とでは、どちらが受け入れやすいものだろうか。
今われわれが直面しているのは、人間的なるものと非人間的なるものとの相互作用である。先に、自己責任論とそれへの反論が、ともに「人間」を前提としていることを指摘しておいた。自由意志を持ち、適切に意欲を発揮するような「人間」が、渇望されている。しかしその一方で、個人をリスクファクターへと分解し、統計的数値へと解体してしまおうとする衝動が存在する。
リスクに対する社会の態度について、再び渋谷の論を追ってみよう。現代においては、主体の能動性が前面に押し出される。たとえばかつて、健康へのリスクは外的世界からやって来るものとみなされていたが、現代ではその限りではない。われわれには自己の身体を健康に保つ責任があり、それは定期健診を受けたり予防的な行動を取ったりすることによって果たされる。この自己責任の増大は、放任主義に帰結するだろうか。病気になるのも自己責任なのだから、政府や専門家がそれにわざわざ口出しすることはない、皆が勝手にすればよい、リスクを自己管理できないものは早死にすればよい、ということになるだろうか。意外にも、実現したのは逆のことである。権力は、われわれを不確定性の荒野に放っておいたりはしない。

健康管理における自己責任の強調は、従来の<病人/健常者>という二項対立的な役割を「脱構築」し、その境界をきわめて曖昧なものとする。これは病院をベースにした、社会保障的な権利による「治療」による回復という、健康へのアクセスの標準的ルートが狭まると同時に、健康な者も日常的なレベルで定期健診や予防行動――タバコを控え、健康的な生活をおくること――が要請されるからである。ここにおいて専門家は治療というよりも、健康な個人の日常生活をターゲットとし、予防を志向するようになる。
渋谷望『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』

治療から予防へのシフト。権力のあり方も変容する。渋谷はフーコーの用語を用いて次のように説明する。「このような経緯で、対面的な場面で具体的な個人に治療的に介入する規律訓練権力の作用は相対化され、全人口を対象とする生権力の生政治的側面が再浮上するにいたったのだといえよう」。規律訓練型権力パノプティコンにおいて囚人たちにつねに「監視されているかもしれない」という疑念を植えつけることによって規範を内面化させてゆく、あの近代的な権力が相対化される。代わって訪れるのは、実際につねに監視してしまう権力である。それは規律の内面化を要請しない。個人は行為の集積として解釈され、データベース上のレコードとして管理されるのだから。
こうした社会では、病者と犯罪者が似てくる。どちらも出現を抑制すべき存在であり、後から治療する/罰するよりも、事前に予防/防止したほうが好ましい。環境犯罪学という新しい発想があるという。従来の犯罪学がしてきたように犯罪者という人間に注目するのではなく、環境のほうにフォーカスすることによって、犯罪を未然に防ごうという考え方だ。

それは人格を変えるのではなく、環境こそを変えようとする。
環境犯罪学はもはや、犯罪性の高い人間はだれかなどと考えない。犯罪性が高かろうが、あるいは低かろうが、どんな人間でも機会があれば犯罪を実行し、機会がなければ犯罪をためらう、このように考えるのだ。
芹沢一也『ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち』

こうした考え方はきわめてドライなものに見えるし、べつだん危険なものとは思えないかもしれない。リスクを適切に管理し、生活習慣病になりにくい食生活を選択するがごとくに、犯罪を予防すること。しかし現実に起こっているのは、秩序への固執と異物排除の加速である。人々の不安はとどまるところを知らない。芹沢の分析が卓抜しているのは、人々がここに快楽を覚えていることを指摘している点においてである。「暗闇からいつなんどき脅かされ、襲われるかわからないホラーハウスの興奮が、そして恐怖を前に心をひとつに肩を寄せ合う快楽が、まさにいま社会を席巻しつつあるのだ」。こうした動きに反論することは困難である。何しろ、「犯罪を予防しようとすること」それ自体は、責められることでもないのだから。社会を無菌状態に保とうとする熱意は危険だが、それだからと言って「たまには人が殺されてもよい」とは主張できない。近年の禁煙運動について思いを巡らしてみたくなる。(2002年に制定された健康増進法は、まさしく上に述べてきたような福祉国家による治療から予防への移行の例と言ってよいだろう)。それはある面では、身体の健康にとってリスクファクターである喫煙を減らしていこうというドライな運動なのだが、その主張にはどこか道徳的な響きがある。おそらく、禁煙ファシズムなどという呼称は、喫煙者の迫害妄想のみに由来するものではない。ただしここでも、禁煙の推進それ自体は、責められることではない。
整理しよう。現代社会において、「人間」の解体を指向する動きがある。個人の内面を目指さず、行為の一つ一つを規制するだけの環境管理型権力。病気を引き起こす要因として分節されていく行動(タバコやアルコールの摂取、運動不足…)。環境への反応として罪を犯したり犯さなかったりするのみの犯罪者予備軍(もちろんわれわれ全員が、0%より大きい確率で犯罪者になりうる点で犯罪者予備軍である)。また他方では、「人間」の構成が指向されている。自己責任論が叫ばれ、それに対する反論がまたしても責任を持った、あるいは持たない「人間」を前提する。宿命論が、「物語」が回帰する。しかも、相反する動きが、ともに人々の欲望によって突き動かされているようなのである。われわれは、ホラーハウス社会を楽しみながら、自己責任論の名の下にニートに説教をする。この社会は、人間を因果律に隷属する物質にすぎないものとして扱うことを要請すると同時に、自由で自律的な主体たることをわれわれに要請する。
噴出しているのは、「人間」に関しての、あるいは主体や自由に関しての、きわめて原理的な問題である。近代を相対化することなどできない。ここが、歴史上にあって、原理的なものが現象する唯一の場である。

7. 主体

宿命と主体との関連について、考察しておく。ジャック・ラカンが「欲望のグラフ」によって図示したことだが、主体はシニフィアンの流れの中に、遡及的にそれ自身を固定する。主体はそれ自体としては存在しないし、シニフィアンはそれ自体としては無意味な連鎖にすぎない。主体は時間的に先行する点をめがけてシニフィアンの連鎖を刺し縫いにすることにより意味を認識し、同時にそれ自身を象徴秩序のなかに現出させる。「語られたこと」の内を、「語る私」が滑りぬけてゆく運動が始まる。アレンカ・ジュパンチッチはこのことを、平易な比喩によって噛み砕いて説明している。

あなたが空港に向かう途中、タイヤがパンクした。当然、あなたは予約しておいた便には乗れない。が、実際これが幸いした――あなたが乗るはずだった飛行機は、墜落したのだ……。ここにおいて、あなたの車のタイヤがパンクしたということは、遡及的に、つまり現在という時点から見てのみ、<意味>をもつようになる。もしタイヤがパンクしていなかったなら、今、あなたはこの世の人ではないだろう――あのタイヤのパンクには「目的があった」、それは「意図されていた」のだ……。これが通常の主体化のプロセスである。それ自体、何の目的ももたないパンクという出来事が、遡及的に、「あなたは飛行機事故で死ぬよう運命づけられてはいない」というメッセージをもっていたことになるのである。
アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理 カントとラカン

宿命と主体とは、一体のものだ。世界は意味として構成され、主体は事後的に捏造される。われわれがマ男のスレで目の当たりにした事態は、主体の構築の反復にほかならない。リスク社会において解体されつつある主体が、「物語」において、その地位を回復する。ブラックな職場で、人間模様の移り変わりのなかに、主人公は運命の告知を見出す。藤田さんがここにいたことには目的があった、木村が入ってきたことには意味があったのだ……。「あなたはまだこのブラック会社で頑張れるはずだ」というメッセージが、福音のようにもたらされる。リフレキシヴな近代の、偶発性の海にあって、この職場は荒波にもまれる箱舟のように有意味性を宿す。自己責任論に対し、左翼は「努力しているのだから、個人の責任ではない」と反駁し、労働者は社会などには目もくれずに「物語」へ没頭する。このサイクルの全体が、主体の回復を願っているかのようだ。
権力と主体との関係について、大澤真幸による議論を参照したい。大澤は、テクノロジーの発達によりパノプティコン的な監視が完全に実現されたとしたら、何が起こるか、と問う。パノプティコンがもたらすのは「見られているかもしれない」という意識と近代的主体だが、情報技術の発展により実現されつつある超パノプティコンは、実際にすべてを監視してしまうだろう。述べてきたようなリスク社会において、個人はデータベース化され、「特定の行為に則してのみその度に主題化されるだけ」となる。このとき、主体には何が起きるのか。パノプティコンがよりいっそう強力になれば、近代的主体はよりいっそう堅強に築かれるのか。大澤の仮説は次のようなものだ。

この仮説が含意していることは、パノプティコンがもともと照準していた効果――すなわち個人における「主体性」――に対して、超パノプティコンはむしろ壊乱的に作用しているかもしれないということ、超パノプティコンは「主体」が変容し内的に否定されていく過程にこそ適合した権力の様態なのかもしれないということである。
大澤真幸『電子メディア論 身体のメディア的変容』

近代的な主体は、それを可能にする機制が完成に近づくにしたがって、崩壊していくというのだ。新しい権力、データベース的な権力は、もはや個人を目指してはいない。先に触れた環境犯罪学を想起しよう。それは、個人ではなく環境を指向したものであった。こうした権力は、個人を横断して統計処理を行い、あるいは集合として扱うだろう。この変容は、近代的権力の方向転換などではなく、その徹底である。カントにおいて思想として完成されている、あの命令、自律的な意志による行為の原則を普遍的道徳法則と一致させよ、という完璧に空虚な命令の実現に、権力は漸近する。カント的主体に内在する亀裂が、社会的領域において表現されることになる。

主体の要件は、もちろん、自律性(自己関係性)にあり、それを追求して、規範の基礎から感覚的なものが排除されたのだった。ところが、自律性に到達したとたんに、主体は、もっとも過酷な命令に従属せざるをえなくなる。道徳法則は、主体の(感覚的な内実をともなった)欲望や能力をまったく根拠としない無内容な――それゆえに容赦のない――命令となるからである。こうして、自律的であるために完璧に他律的であることが要請されるという逆転が生ずる。その場合、他律性は、根拠のない空虚で形式的な命令への従属という形態をとる。
(同上)

本論でわれわれが観察してきたのは、近代的主体の完成および崩壊への抵抗であった、と言ってよい。いや、まさにその完遂への抵抗こそがそれ自身の本質を成していると考えるべきかもしれない。カントの倫理が求めるのは、よく知られているように、自律的な主体である。自己責任において決断を下す主体。だが、その決断は世界の内側に根拠を持ったものであってはならない。そうだとすれば、他律にすぎないからだ。なんらかの利益のために行為することは自律的ではないし、感情によって行為することも自律的ではない。「自分で考えたこと」に従うことは、自律的ではない。なぜなら自分の思考であっても、それは心理的あるいは物質的な因果律に縛られたものにすぎないからだ。真に自律的であるためには、まったく実質を伴わない命令に従わなければならないことになる。大澤も言うように、主体がそこで触れてしまうのは、ラカンが享楽と呼んだものにちがいない。
われわれの時代において、主体の本質的な構造が社会的に表現されている。主体は、原理的に裂け目をはらんでいるが――ラカンが大文字のSに斜線を引いて主体を示したことを想起せよ――、その分裂が社会で現象しているのだ。一方で主体は、世界を意味として構築する(矛盾したことに、主体はその効果でもあるのだが)。労働問題を巡る自己責任論とそれへの対応、ブラック会社の「物語」などからわれわれが見て取ったのは、そうした運動だ。他方で主体は、世界を無意味な物質へと解体しようとする。主体がかつてそれ自身であったものへと、対象aへと回帰する運動。われわれはそれを、欲望しながら、恐怖する。
大澤の用語で言うならば、超パノプティコンが出現しつつある時代においては、「第三者の審級」が極度の普遍性を持つことになる。本論の文脈で言えば、<他者>が極度の普遍性を持つことになる、と言える。ウェブでの炎上という現象を鍵にして、われわれはこの時代における<他者>に関する洞察を展開しておいた。<他者>の目がどこに光っているか分からなくなってしまった、その混迷の一端が、炎上として現れていたのであった。今やわれわれは、リスク社会における「治療から予防へ」のシフトとともに全般化する権力、フーコーの論じる規律訓練型のそれとは異なった位相にある権力と、炎上との関連について理解することができる。ネットイナゴにとって、炎上は快楽であるにちがいない。地域社会の防犯に気を配る善良な人々にとって、ホラーハウス社会が快楽であるのと同様に。相同性は、その行為がそれ自体として非難に値するわけでは無い、という点にもまた存する。不道徳な行いに注意を与えることや、防犯活動は、それ自体としては悪いことではない。だが、それらは過剰にすぎるのだ。大澤によれば、この<他者>の極限的な普遍化において、主体の同一性の核心部に不気味なものが浸潤する。

だが、極端に普遍化した権力のもとでは、語られた主語の内に表示された(暫定的な)<主体>すらも、確固として同一的な像を結ばない。他方でしかし、普遍化された監視のもとで、その度ごとの自己(非)正当化の要請はとどまることはなく、むしろ強化されてもいる。こうなれば、語られた主語に与えられた諸規定が表現している「<主体>の実定的な描像」よりも、語られた主語に対する語る身体の「残余性」こそが、深刻で支配的な現実へと変換されるだろう。
大澤真幸『性愛と資本主義』

「残余性」、つまり「語られたこと」からつねに取りこぼされる現実界的な何か。われわれはその侵蝕に抵抗し、かつ侵蝕を推進する。就職先に宿命を見出し、ブログを燃え上がらせる。

8. 誰でもいい誰かと誰でもいい誰かと誰でもいい誰かと

無差別殺傷事件。被害者は、誰でもいい誰かとして傷つけられ、殺された。「誰でもよかった…」。しかし、「誰でもいい」のは被害者のみではなかったのではないか。この事件では、加害者すらも「誰でもよかった」かのように見える。
Kが犯行にいたる以前にネット上に書き散らした断片的な文章は、われわれにとっては実に見慣れたたぐいのものだった。そこに見ることができるのは、イケメンばかりが得をする世の中を呪う非モテの姿であり、リア充につばを吐き孤独な自分をニヒルに哂う鬱屈した青年の姿だ。掲示板に投げ出されたKの言葉から、かけがえない個人史の一面としてその内面を推し量ることは難しい。ネットではありがちなそれらの書き込みは、犯行動機を分かりやすく提示してくれる。Kはコミュニケーション不全により苦しんでおり、自分の容姿を過剰に気に病み、恋愛による承認充足に固執し、不安定な雇用のために精神をすり減らし、怒り恨み嫉み憎しみを暴発させ、罪無き人々の命を奪った。
すでに述べたように、この事件の後に巻き起こったのは、事件についての語りというよりも語りについての語り、メタ言説であった。まるで、事件についての語りはあらかじめKによって先取りされていたかのようだ。それによって、玉突きのように主体性の欠落が起こっている。Kは自己をティピカルな犯人像として演出し、われわれはそれについて語ることを自粛した。犯罪があり、われわれがそれを分析したのではなく、Kが犯行への道筋を明示し、われわれはそれについて主体的に解釈を施すことはせず、態度を保留した。引用した談話で東も指摘していることだが、優勢だったのは、リスク管理的な考えかた、犯罪発生の確率を抑えるために粛々とシステムを構築することを奨励するような、冷めた言説だった。(非モテは犯罪因子であるから、予防的措置が必要だ…)。
「誰でもいい誰か」は、また別の次元でも要請されている。われわれは、ウェブ上に文章を書き付けるとき、いかなる読者を想定しているだろうか。ひとことで言って、それは「誰でもいいが、誰かであってはならない誰か」ではないか。大澤真幸は、プロテスタンティズム的な日記においては「神」がその読者として想定されており、信仰者は日記において神に罪を告白していたことを指摘した上で、Kがウェブに投稿した日記について考察するなかで次のように述べている。

つまり、ブログがそれへと向けられている他者は、具体的ではあっても、よく知っている親密な他者(のみ)であっては不十分なのである。親しいつもりでいた友人のブログを読んだとき、そこに、自分がまったく知らない秘密が書かれていて、驚くことがある。インターネットの日記サイトでは、ときに、(当人にとって)重要で内密なことが、未知の匿名の他者に対して語られるのである。
要するに、こういうことである。まったく世俗的な欲望と挫折にまみれているように見えるKの宇宙にも神がいるのだ。それは、背反的な二つの性質、つまり具体的であることと匿名的であることとを特徴とする、インターネットの中の他者たちの形式をとっている。
大澤真幸アキハバラ発 <00年代>への問い』

ウェブ上でなんらかのテキストを発信したことがことがある者ならば、実感を持ってこの分析を理解できるだろう。ブログの読者は家族や知人であってはならず、どこかの知らない誰かでなければならない。われわれの告白に耳を傾けてくれる、誰か。Kもまた、ウェブの虚空に向けて、匿名の他人を目がけ、独白をつむいだ。ネットの中にいる匿名的他者たちはいつも、奇妙に近すぎるし、遠すぎる。遠すぎる、という点については理解可能だ。物理的に遠く隔たった者とのテキストによるコミュニケーションが、面と向かってのそれよりはるかに情報量が少なく希薄なものとなる、ということは了解できる。だから日常的にはとても口にできないような暴言も、匿名的他者に対してであれば投げつけることができるし、不幸をあざ笑うこともできる。他方で、匿名的他者は時として異様に近く感じられる。渾身の記事へのささやかな賞賛が、心無い非難が、どれほどブロガーの心情を揺るがすか。まったく無内容無根拠な罵倒にさらされたとき、あなたはモニターの前で、自分に言い聞かせる――これは取るに足らない批判であり、批判というよりは悪口にすぎないのであり、このようなくだらない雑言を吐くような浅薄な輩を相手にする必要は無いのであり、無価値な発言は放っておいてもやがてウェブにおいて淘汰されるのであり、反論などしても時間の無駄であり、ましてや私の心がこんな発言によって傷ついたりする理由などない――が、なお、あなたの精神は平静を保てない。こうした不安定な他者との距離において、われわれは揺れ続ける。
誰でもいい誰かの前に日記を公開する誰でもいい誰かが誰でもいい誰かを殺した。近頃、人々は盛んに「任意の誰か」について語っている。政治家の失言について、われわれは「そのような不適切なことを言う人を、私は支持しない」とは言わない。そうではなく、「あのような不適切な発言をしていては、支持を得られないだろう」などと批評するのだ。支持をしたりしなかったりするのは、「私」ではない「任意の誰か」である。「私」はメタ視点から評価をくだすばかりだ。政治論は、広告論的になる。柄谷行人アメリカの大統領選挙に触れながら、こう言っている

そのように、宣伝され、演出されているということを、アメリカの大衆は知っている。知っていて、どうも演出の仕方が下手だとか、そういう判断までしているわけです。そうすると、たんなる宣伝というのとちょっと違ってきます。この人は演出が下手だというような評価も判断のうちに入るのですから、ほとんど相互了解でやっているようなものです。たんに大衆が動かされれるというのではなくて、大衆が、自分を動かしている当のものを知りながら動かされる。つまり、自分で主体的にそれをやっているのだと思えるということ、これが、「広告」と同じことなんですね。
柄谷行人『言葉と悲劇』

主体性は、とらえどころの無いものとなる。われわれは受動的に騙されているわけではない。それどころか、われわれはそれが広告であることを十分に認識している。が、それはなおかつ広告として機能する。すなわちわれわれは騙される。私はたしかに私でしかないが、同時にマーケティングターゲットとして抽象化された「誰でもいい誰か」として宣伝戦略に乗せられる。広告論を語る私と、広告に踊らされる誰かへの分裂。拡散した主体性は、霧消してゆくよりは、共同体のうちへと閉ざされてゆくだろう。

広告の限界とは何かといったとき、それは共同体の範囲を越えられないということ、共同体をたえず強化することである、という気が僕はします。そうでないかぎり、また広告の効果もないんですね。大衆の欲望が、いわば「無意識」が、表出されていないかぎり、効力を持たないのです。
(同上)

誰ひとり、「任意の誰か」ではありえない。「誰かの欲望」は、結局のところ共同体の無意識的欲望であると言える。しかし、この「広告批評する私」と「騙されて行為する任意の誰か」との分裂がより極端になった場合、どのような事態を招くだろうか。スラヴォイ・ジジェクは、ただ快感のために外国人に対する暴力行為に及ぶスキンヘッドたちについて、こう言っている。

もし彼が暴力の理由づけを迫られ、最低限の理論的考察能力を備えているならば、突如ソーシャル・ワーカーや社会学者、社会心理学者のような口を利き出すだろう。階層間の移動が減り、不安定感が増し、家父長的権威が崩壊し、幼児期に母性愛を十分に受けてこなかったといった理由を引き合いに出しながら。〔…〕暴力的なスキンヘッドは、<自分がしていることを十分に承知したうえで行為に及んでいる>。主体の実質的な社会行動に組み込まれている、象徴的に機能する認識は、二つの方向に解体される。一方には、イデオロギー的・政治的基盤を欠いた、過剰で<不合理>な暴力。他方には、主体の行為に関与しない無意味で外部的な考察。
スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』

こうした考察をKの事件に当てはめて「ポストモダンな暴力」を云々することは控えるが(通り魔事件は昔からあった)、われわれが体験しているのは、まさにこのような分裂、饒舌に理由や原因を云々する誰かと、それとは無関係に行為する誰かへの分裂である。たしかに、語られる理由や原因が正しいという点では正常に関係しているとも言えるのだが――スキンヘッドたちの洞察は正鵠を射ているかもしれない――、そこに主体的判断が介在しているようには見えない。(しかし主体的判断が存在するとは、どのような状態なのか)。
完成に漸近するにしたがって崩壊してゆく近代的主体は、閉ざされた共同主観的な無意識においてそれ自身を維持するか、あるいは非意味的な肉体性を前景化し、過剰な暴力を噴出させる。誰でもいい誰かについて喋々する誰かと、共同体の欲望を担う誰かと、不合理な快楽を享受する誰か。「私」は、どこにいるのか。

9. 愛について

Kが欲していたのは、恋愛による自己承認であったという見解がある。しかしまた、こうも言えるのではないか。われわれが恋愛において得られると密かに期待しているものは、自己の否定である、と。
別れ話は滑稽である。別れゆく二人の間に、いまだ「話」が成立するらしいのだ。往々にして、人は相手がいかにひどい所業を為したかを責める。あなたはなんてひどい男なの。いや君のほうこそ…。そこで話題になっているのは関係性それ自体の切断なのだが、対話を成り立たせようとすれば、そこには何らかの関係性が存立していなければならない。この捩れた関係を一方的に持続させようとすれば、人は「粘着質な」元恋人となる。別れた後にもしつこくメールしてきて、過去を言い募る元恋人。
この滑稽さは、自己言及性に由来する。関係性について語るとき、われわれはすでに関係性の内側にいる。語っているとき、われわれはすでに語られたものとなっている。それはいかにして始まるのか。始めるのではなく、始まってしまっていることに、われわれは気づく。愛そうとして愛するのではなく、愛してしまっていることに、気づく。
永井均は、社会契約論の困難について論じるなかで、社会契約の成立には「魔術的な飛躍」が必須であることを指摘している。社会契約は「多くの人々が、より幸福でいられるような条件」を実現するが、その契約を可能とするには、「私」を「多くの人々のうちの一人」として把握せねばならない。しかし「この私」が「任意の誰か」でもあるというこの認識こそ、社会契約によってもたらされたものではないのか。単独性から特殊性への飛躍。契約の根拠は遡及的に捏造され、われわれはそのことを忘却する。

千絵 − そういえば、神の存在を信じるようになった人は、自分がなぜ神を信じるようになったのか、そのプロセスが思い出せなくなるらしいよ。
祐樹 − かくかくしかじかの理由で神を信じざるをえない境遇に陥ったから信じるようになったんだ、なんて記憶していたら、もう本当に信じていることにはならない、ってことかな。
アインジヒト − そうだな。入信行為の意味そのものが、入信以後の信念システムの中に新たに位置づけなおされる必要があるからね。だから、入信以前の信念システムから見た、入信せざるをえなかった理由は、もう理解できないのでなければならない。それこそが、入信以前の問題がそこで本当に解決したことの証拠なんだ。入信は、たとえば「神ご自身の導き」によってなされたことにならねばならない。だから、本当に神ご自身の導きによってなされたんだよ!
永井均『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』

この世界が始まる以前にあった何かは、抑圧される。「この私」は否定され、象徴秩序に組み入れられる。今となっては理解不能なシステムに存在していた空虚−不在−孔の周囲に、<出来事>が生起し、世界が塗り替えられる。主体性が、自由がありうるとすれば、この「語る私」と「語られた私」との間隙においてだ。私があなたを愛するのは、私の自由意志によるものではないが――気づいたときには愛していたのだから――、それでもなお、私は私の意志によってあなたを選んだにちがいない。すでに為されてしまった選択を引き受ける責任。恋人が与えてくれるのは、承認ではなく、否定だ。
斎藤環は、時代の病理を象徴するものとしてひきこもりを語るなかで、それと「去勢の否認」との関連を指摘している。ひきこもりは、去勢の機会を奪われたものとして、終わらない思春期に呪縛されているのではないか、と。

つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。成長の痛みは去勢の痛みですが、難しいのは、去勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。みずから望んで去勢されることは、できないのです。〔…〕
まず問題とされるべきは、子どもたちが学校において「誰もが無限の可能性を秘めている」という幻想を強要されることです。これが問題となるのは、すでに去勢の過程を済ませつつある子どもたちにとって、このような幻想が、あたかも「誘惑」として強いられることです。つまりこれが、去勢の否認です。
斎藤環『社会的ひきこもり 終わらない思春期』

こうした病理をひきこもり的だと言ってもよいし、非モテ的だと言ってもよいが、ともかく、ここで象徴的な意味での去勢として要請されているのは、「魔術的な飛躍」である。社会契約以前の無限性、全体性を諦め、「私」を「他の誰かでもありうる誰か」として、「主体」を「任意の個人」として捉えなおすこと。シニフィアンの連鎖の中に、「この私」を滑り込ませること。
本論で述べてきた問題の全てが、この「飛躍」に絡んでいる。それは「語る存在」としてのわれわれに原理的に付きまとう問題であり、かつ、この時代において特に問われるべき問いである。
自由は、責任は、いかにして可能なのか。

10. 霧

人間は霧のなかを進む者である。
しかしうしろを振り返って過去の人びとを裁こうとするときには、途中にどんな霧も見えない。かつて過去の人びとの遠い未来だった現在から見ると、彼らの道はまったく明るく、その広がりがすっかり見渡せるように思える。人間がうしろを振り返ると、道が見え、そこを進んでくる人びとが見え、彼らの誤りが見えるが、そこにはもはや霧はなくなっているのだ。
ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』

われわれは、かつて見ることができなかった事々を見ることができる。だが、「見えなかったこと」が、見えない。そして、「見えないこと」が見えない。そのことを自覚することはできる。無知の知。科学者の謙虚さ。とはいえ、自覚が何の役に立つだろうか。やはり、われわれは、あれを、これを、やってしまう。