古典の拡大解釈、正しい解釈

現代思想」の本に固有名詞が出てくるときには、それはコノテーションを伴っているので、そういう文脈を知っていないと読み取れないことがある。ただ、英米系、分析哲学系の固有名詞だとコノテーション少なめで、『未知との遭遇』では意図的にそっち系を引用するようにして、「現代思想に詳しい人」じゃないとわからないようなことは書かなかった。というようなことを佐々木敦が喋っていた*1が、要するにデリダとかレヴィナスとか、対象aとかパノプティコンとか言ったら、伝わる人には伝わるよねーっていう雰囲気をかもし出せるという話だ。(そして確かにラッセルとかクリプキとか言っても、ムーディな感じにはならない)。本を書くということは当然歴史の堆積の上に言葉を重ねることなのであり、多量の情報を引き連れてきてくれるタームは便利なので便利に使ってしかるべきである。しかし一方、東浩紀はそういう文脈依存な言葉を避けて普通の日本語で書こうとする人だよね、と佐々木が言ってた。
で、話は多少ずれるんだけど、東は例えば以下のようなことを書いてしまう人である。

だから、一般意志とはデータベースのことなのだという本書の主張は、実証的な意味でのルソー解釈としては決して成り立たない。つまり、筆者はここでルソーの文章を「深読み」あるいは「拡大解釈」している。しかし、ではこれは学問的に無意味かといえば、人文科学とはおしなべて古典をその時代時代に合わせて拡大解釈することで進展するので、これはこれで正統な方法と言えないこともない(理系の読者のみなさんには不審を抱かせるかもしれないが、こればかりは「文系とはそういうものなのだ」と納得してもらうほかない)。

こんなダサいことをわざわざ説明する人はあまりいないのであって、『一般意志 2.0』は全体としてはつまらない本だけど、こういう断片はちょっと面白い。せっかく「ルソーが一般意志って呼んでるのって、データベースのことじゃね?ってコジつけたら面白くね?」ってひらめいたんだから、「Googleがルソーの一般意志をついに明るみに出すのだー!」って単に書いておけばいいのに、わざわざ理系のみなさんにことわりを入れるという親切さ。
ただ、「古典は拡大解釈してナンボ」という説明は、ちょっと言葉足らずという気もする。本当に生産的な議論を生み出すのは、「この古典の正当な解釈はこうである」「○○が本当に言いたかったのはこういうことである」と言い張ること、ではないか。大澤真幸が指摘するように、古典への執着(教祖への帰依?)こそが、逆説的にも知の革新をもたらす。冷静に考えてみれば、哲学を研究する者が過去の書籍を解釈することに時間を費やすというのは不可解なことなのだ。いったい、昔の偉い人が何を書いたから、どうだというのか。新しい思想をスクラッチから書き起こしてはいけないのか、と疑問に思うのは自然だ。しかし、開かれた研究を新しくはじめる、よりも、古典に閉じこもって「正しい解釈」をひねり出すほうが、むしろ開かれた知をもたらす。真実に近づくためには、「真実が書かれているとされる書物」、そしてその著者すなわち「知っていると想定される主体」に寄りすがることが必要であるらしい。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

*1:多分 http://junkudo.seesaa.net/ のどこかで喋ってたはず。