運の悪さはあなたの責任

大澤真幸が「道徳的な運」について述べている。ある行為が道徳的に善とされるか悪とされるかは、運に左右されるものだという。いくら善き動機から行ったものであっても、それがたまたま悪い結果に至ったならば、道徳的に非難されるかもしれないし、逆もまた然り、と。

このように、ときに倫理の核心部に、倫理とはまったく対極にあると考えられている運の要素、つまり偶有性(偶然性)が宿っている。〔…〕この点は、3・11の原発事故のことを考えると、非常によくわかる。原子力発電所を建設し、維持し、電気を供給してきた者は、言うまでもなく、倫理的な観点からして、正しい動機や目的を(も)もっていた。〔…〕にもかかわらず、福島第一原発の事故のような大規模な原子力事故が起きてしまえば、原発を建設したり、維持したりしてきたことは、間違っていたこと、正しくなかったことになるのだ。

大澤が挙げている原発事故の例は、極端に大きな振り幅で道徳的悪へと転落してしまう例だが、われわれはもうちょっと振り幅が小さい例を考えてみよう。飲酒運転で事故って何人か轢き殺したとする。当然これは道徳的に糾弾される行為、真っ黒な悪、である。償っても償いきれない巨大な罪である。ここで、人が彼を非難する根拠はといえば、a)人が死んだという結果、であり、b)それが自由な主体であるところの彼の行為によるものだ、ということだ。しかるにこの結果については、彼の行為によるものであるとはいっても、偶然的なものではないのか。注意が疎かになった瞬間に、前方に歩行者がいたことは偶然ではないのか。飲酒運転の結果、たまたま人が死んだり、死ななかったりする。偶然的な結果ではなく、行為に、意思に道徳的悪の核心があるのだとすれば、われわれはむしろ誰も轢き殺さなかった場合でもまったく平等に運転者を責めるのでなければならない。いや、酔っていなくてもよそ見をする一瞬はあるのだし、ということはよそ見をした瞬間に懲役刑であり、運転中にウトウトしただけで、社会的に抹殺されて一生後ろ指を指されて十字架を背負って生きていくべきではないのか。運の善し悪しに惑わされない道徳的判断を欲するのであれば、そのように言うほかない。勧められた酒を断れなかった運転者が悪いのか。しかし酒を無理に勧めるような友人を持ったのは偶然だし、勧められたものを断ることが苦手な気弱な性格に育ったのも偶然だとすれば、もはや誰もが糾弾されねばならないのであり、息をしているだけでも罪悪である。ならばやはり結果論で考えるしかなく、事実として人が死んだ場合にのみ悪が突如として発生するのか。結局のところわれわれの責任という観念は曖昧なものであり、運と主体性の間でモヤモヤしている。
また、責任とセットになる概念は自由というもので、これが無ければ道徳性を問われることもない。すなわちあなた自身の選択によって生じた結果について責任を問われうるのであって、あなたの行為と無関係な事柄については罪に問われることもない、もちろん。とすると、自由が問題になるのは、運悪くあなたの行為が最悪の結末を迎えた場合なのだ。あのときああしていれば。あのとき酒を飲まず、スピードを出さず、脇見をしなければ。それらはすべてあなたの自由に開かれていた選択肢であり、あなたが選択を誤ったために破局を招いた、とされる。振り返ってみた時、幾筋もの他の行為の可能性が浮かび、そして最悪のルートに自分の意思で踏み込んでしまったということに気付かされる。
だから自由な人間の基調的な感情は、後悔である。

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