暴力、国家、暴力以前/人材派遣会社としてのヤクザ

萱野稔人『カネと暴力の系譜学』は、ドゥルーズフーコーあたりを参照しながら国家や資本主義を分析していく本で、かなり噛み砕いて分かりやすく書かれている。序章では、軽い語り口で下記のように問題設定がなされる。

1.誰かからカネをもらう。
2.みずから働いて稼ぐ。
3.他人からカネを奪う。
4.他人を働かせて、その上前をはねる。

最初の「カネをもらう」というのにはいろんなケースがある。〔…〕
問題はそのあとの三つである。じつはこれらは、よく見ると、社会の外枠をくみたてている三つの柱にかかわっている。労働、国家、資本だ。

これを読んで、きっと労働国家資本の三位一体を分析したあと、最終章で「誰かからカネをもらう」つまり「贈与」を導入することによって資本主義-国民国家を超えてゆく可能性が示されるんだろうな、うわー俺見えちゃったわー、と思ったんだけど、そんな最終章は無かった。贈与については、まったく触れられてなかったです。
萱野は、徹底して暴力という視点から国家・資本主義の成立を読み解いていく。契約とか約束とかで国家や経済が成り立ってるわけじゃないのだよ、と。社会契約によって国家が成立したわけじゃなく、強いやつが弱いやつを力でねじ伏せたから国ができたんだし、法律が機能するのは、違法行為を制圧できる巨大な暴力が存在するからである。
その文脈で、ハンナ・アーレントが批判される。「まず人民の同意をつうじて法が制定され、それによって権力が国家へと集中していった」というアーレントの想定は、誤りである、と。暴力による取り締まりが無ければ法の制定などありえない、同意以前に暴力があるのだ、と萱野は主張する。だが私としては、アーレントを擁護したくなる。まず端的に、贈与は実在するし、さらに付け加えれば、すでに贈与されてしまっているから。別に私は萱野の仮想論敵のように、「人間社会の基礎が暴力ばかりということはない。みんなが仲良く約束したから共同体ができたのだ」と言いたいわけではない。すべては暴力から始まっている、というドライで冷徹な認識は、それはそれで正しい。だが、暴力によって利益を得たり奪われたりする、その利己的な主体はいかにして成立したのか。思い切り卑近でこっ恥ずかしい喩えから考えてみてもいい。国家の成立が、暴力による支配よりも、むしろ恋愛に似ているということは、ありえないことだろうか。ナショナリズム論において問題となるような、国民の国家への傾倒、国のためなら死をも辞さない情熱は、力に屈服した者よりは、恋愛に溺れる者に似る。私が言いたいのは、国家もいいものだよ、という話ではなくて、国家・ナショナリズムの不可避性はもっと根深いものなのでは、という話。現実原則に従った損得勘定による屈服ではなく、欲望が国家を支えているとしたら。
あと、国家が「無法者」を飼い慣らすことによって経済を回す、という指摘は労働問題を考える上でぜひとも抑えておくべきもの。

もともとヤクザ組織が成立・拡大してきた背景には、暴力をバックに労働を組織し、その成果(カネ)を吸いあげるという活動があった。〔…〕
国家が活用しようとするのは、そうした暴力にもとづいた労務管理の実践である。とりわけ、港湾荷役のような、重要な産業ではあるが労働者をあつかいにくい現場では、国家はアウトローによる労務管理を黙認し、場合によってはそこに積極的に手をかした。〔…〕
では、労務供給業をつうじた間接雇用は現在どのようなものになっているのだろうか。
いまではそれは、派遣会社や請負会社(アウトソーシング業者)によってひろく受け継がれている。
ただし、かつての労務供給業と現在のそれとのあいだにはひとつ決定的な違いがある。現在の派遣会社や請負会社は合法企業であり、かつてのアウトローによる労務供給業とは異なり、みずから暴力を準備しているわけではない。

ヤクザが管理を担っていたブラックな労働形態がいまや合法的なものに変化し、国はただ規制を緩和し、市場原理に、経済合理性に任せておけばよい。このような構造的変化を見ずに、非正規雇用などに関する問題を「自己責任論」で語っているとマヌケである。

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)