長回しに暗闇が見える

アルフォンソ・キュアロン監督「トゥモロー・ワールド」(原題:Children of Men)、45秒以上のショットすべて。最長6分16秒とのこと。
Children of Men - every shot 45 seconds or longer on Vimeo
しかしこれはCGで複数のショットをつないでいるらしい。ずるい。
一方、香港映画。ジョニー・トー監督「ブレイキング・ニュース」(原題:大事件、英題:BREAKING NEWS)、最初の1ショット。6分45秒ほど。

どう見てもCGじゃないワンカット。カメラは屋根の高さから下降してきて、2階の窓から中の様子を覗きこみ、路面へと降りてきて、自動車を回りこみ、道のあちらがわこちらがわを眺め回して、ふたたび宙に舞って俯瞰となる。その間に、銃撃戦、火花が散って、車のボディにバチバチと銃痕ができる。カメラをクレーンに乗せたり下ろしたりしているとしか考えられないよね。カメラの背後にスタッフがくっついてゾロゾロ移動してるんだろうか。
上に挙げた映画はどちらも大変面白いのでぜひ見るといいですよ。それにしても、長回しは快楽だ。なんでだろうと考えていて、ロベルト・シューマンについて新宮一成が次のように述べていたことに思い当たる。

音楽からリズムを取り去るということは、切れ目のない音楽を作ることである。それは、「音」と「沈黙」とを均質化することになるだろう。なぜなら、リズムとは、小節と小節との間に、無限小の、触知不可能な沈黙を挿入していることだと考えられるからである。しばしば見受けられるような、音が鳴っている部分よりも沈黙の「間」の方にこそ聞き取るべきものがあるとする考えは余りにも素朴である。音楽は、上に述べたように、鳴っているときにすでに沈黙なのである。音楽がその上に発生している次元においては、音と沈黙とは等質なのであって、そこでは我々の耳には意味として聞き取れないようななにものかから、音楽が絶えず生まれている。

とすれば、映画からカット割りを取り去るということは、切れ目のない映画を作ることであり、それは光と闇とを均質化することになるのだろう、か。スクリーンは、映写機に照らされているときにすでに暗闇なのである。暗闇はあらゆる場所にあるけれど、言語の内側に住む私たちの目には見えない。しかし音楽に「耳を奪われた」とき、映画に「目を奪われた」ときに、私ではない誰かが、非意味の音を聞き、非意味の光を見てしまう。

無意識の組曲―精神分析的夢幻論

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