またこんなことを言うマンション住人もある。夜更けによその人の声が、つぶやきほどだけれど、聞こえることがある。壁の中からではなく、外から来るのでもなく、遠近の感じもなく、しいて推測すれば、コンクリートか鉄筋かパイプかを伝う響きをたまたま部屋の空間が共鳴函となって受けるのか、寝床に横になっていると、天井からだいぶさがったあたりの宙でひそめく。あるいは窓から、カーテンを透して薄明りみたいにふくらむ。どれも呻きか喘ぎ、苦悶をふくんだ声に感じられるが、ときたまその中からいきなり、そんな暗さのまるでない、ごくごく日常の、言葉のきれはしが聞き取れる。幻聴とは違う。ただ、直接に耳にする人の声よりも、人の声として煮つまっているというか、いかにも話しているという色が濃いと。
古井由吉「いかゞせむと鳥辺野に」『仮往生伝試文』