「むし齒がいたむんです。」
看守は、けげんそうな顔をしながら、次の部屋の監視窓の方へ去つて行つた。看守が、そんな汚らしい作業をやつている清作を見たのは、二度や三度ではなかつたからである。だが清作は、看守が去ると、ふたたび指を口のなかに入れて、むし齒になつている奥齒をいじりはじめる。強く押されるたびに起るむし齒の痛みや、鋭くとがつた齒にくい込まれる指先の痛みや、むし齒特有のゴム臭などが、彼に深い快感をあたえるのだ。その快感は、妄想のなかへ失われていた彼自身をとり戻し、彼のおかれている現在へ、彼の心をひらいた。實際、妄想しているときの彼は、看守が窓から彼を呼んでも気がつかないときがあつたのだ。
椎名麟三『自由の彼方で』