祖国無き独立にはイマージュなき肉体存在そのものをもって対さねばならぬ。

祖国無き独立にはイマージュなき肉体存在そのものをもって対さねばならぬ。必要なのはエロスでなくロゴス。思想の奴隷と化した肉体と思想の奴隷と化した群衆との間には歴史の廃墟がほほえむ。カオス。いずれにしろ腐れはてたワギナをはいずりまわるうじ虫どもの戯れ。酔いどれ船の船酔い。吐気からは抜けられまい。ママ子の思想、アイギストスホモ・ルーデンスたらんとするが空間の火花を恐怖する擬似ホモ・ルーデンス。限界での演繹の遊戯即ちゲーム。ゲームも又労働。
東大全共闘「あるデマゴコスの敗北」『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』

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天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もありえない、(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。

天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もありえない、(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな神人分離の時代からその二重性格を帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての観念的な、理想的な天皇像といふものは歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的、理想的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと私は考へる。
三島由紀夫「砂漠の住民への論理的弔辞」『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』

そうするとですね、ぼくが言いたいのは、観念に名前がつかなきゃ、観念は観念じゃないということをさっきから言っているわけですよ。

三島 そうするとですね、ぼくが言いたいのは、観念に名前がつかなきゃ、観念は観念じゃないということをさっきから言っているわけですよ。(笑)それでね、あなたと私との本質的な差は、結局名前があるかないかということなんです。つまり、事物というものに名前があるかないか。
全共闘E 概念。
三島 概念というものに名前があるか。名前は概念じゃないよ。名前と概念は違う。
全共闘E 観念は名前がなけりゃ観念じゃない。観念というのは概念という基礎づけがあるから観念なんだ。概念がありさえすればいいんだよ。何だって……。
『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』

これはだ、これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。

三島 これはだ、これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素は何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。
『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』

つまり事物を利用する観点からは、その形自体がすでに目的論を内包しているのじゃないかと。

三島 つまり事物を利用する観点からは、その形自体がすでに目的論を内包しているのじゃないかと。あなたの全然目的論のない世界において、純粋空間が瞬間的にあらわれるというために物を行使し、あるいは利用し、道具として使う場合には、目的論が内包されていちゃ困るわけだ、本来。なぜなら目的論というのは当然時間というものを内包するからだ。手段から目的への過程があるからだ。
『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』

そうするとだね、それが持続するしないということは、それの本質的な問題ではないわけ?

三島 そうするとだね、それが持続するしないということは、それの本質的な問題ではないわけ?
全共闘C 時間がないのだから、持続という概念自体おかしいのじゃないですか。
三島 そうすると、それが三分間しか持続しなくてもあるいは一週間あるいは十日間持続しても、その間の本質的な差は、全然次元としての差すらないですか?
全共闘C だってそれは比較すること自体がおかしいわけですよ。
『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』

われわれがしめしたように、現在の個人たちは私有を廃棄せざるをえない。

われわれがしめしたように、現在の個人たちは私有を廃棄せざるをえない。というのは、生産力および交通形態が非常に發展したために私有の支配のもとでは破壊力になっているからであり、また階級の對立がその絶頂にまでおしすすめられているからである。そして最後にわれわれがしめしたように、私有と分業との廃棄そのものこそ、現在の生産力と世界交通とによってあたえられた土臺のうえでの個人たちの結合なのである。
マルクスエンゲルスドイツ・イデオロギー』(古在由重 訳)