天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もありえない、(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もありえない、(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな神人分離の時代からその二重性格を帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての観念的な、理想的な天皇像といふものは歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的、理想的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと私は考へる。
三島由紀夫「砂漠の住民への論理的弔辞」『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』
これはだ、これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。
三島 これはだ、これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素は何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。
『討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘 《美と共同体と東大闘争》』
われわれがしめしたように、現在の個人たちは私有を廃棄せざるをえない。
われわれがしめしたように、現在の個人たちは私有を廃棄せざるをえない。というのは、生産力および交通形態が非常に發展したために私有の支配のもとでは破壊力になっているからであり、また階級の對立がその絶頂にまでおしすすめられているからである。そして最後にわれわれがしめしたように、私有と分業との廃棄そのものこそ、現在の生産力と世界交通とによってあたえられた土臺のうえでの個人たちの結合なのである。
マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(古在由重 訳)