見イちゃった、と幼い子供が戸口から駆けこんで来て、見ちゃった、ともう一度、今度はすこしかすれた声でつぶやくと、調理台に向かう若い母親のうしろを通り過ぎた。その二度目のつぶやきが母親には可憐に聞えて、良かったこと、何を見ちゃったの、と背を向けたままたずねたが返事はなくて、あとは忙しさに取り紛れた。〔…〕
また半月もして、例の事故とは男女の刃傷沙汰だったらしい、とまた別の主婦がおしえた。怪我以上のことがあったかどうか、皆もよく知らないようよ、とその主婦は話を切りあげかけて、あら、そう言えば、とこちらの母親の顔を眺めて、お宅の何君、その時、すこし離れたところにじっと立っていたそうだわ、と言った。母親はすぐに帰って子供に問いただしたが、子供はキョトンとした顔をするばかりだった。父親とも相談して、それから幾度か、腫れ物にさわるようにして聞き出そうとしたが、子供はそのつど何のことか見当もつかない様子で、嘘もなさそうで、人違いだろうと親たちも思って、それきりになった。ただ、その場所の話になると、子供はかならずきっぱり、あの辺へ一人で遊びに行ったことは一度もないと答える。
古井由吉「諸行有穢の響きあり」『仮往生伝試文』