それにしても、昨今、人は死ななくなった、とはどういう了見か。

それにしても、昨今、人は死ななくなった、とはどういう了見か。夜になってたどり返すと、はたして、およそ舌足らずのことだった。不食の病いというものを、漠と思っていた。何事かを境に、物が喉を通らなくなり、日に日に痩せおとろえて、寝ついてほどなく臨終に至る。これが人にとって、もっともなだらかな、どうにか折り合える、仕舞いの運びではないか、と。それは今の世でもあまた聞く話ではあるが、物の食べられない状態が続けばかならず、病院へ行って癌だの何だのと診断されて来るので、本人の意識もそれに取り籠められるので、不食によって果てることにはならない。しかし人は本来、物が食べられなくなったのでやがて死ぬ、そういう存在なのではないか。
古井由吉「愁ひなきにひとしく」『仮往生伝試文』