人の静まった夜中に、部屋を暗くして、花に向かって一人坐ると、顔が白くなる。

人の静まった夜中に、部屋を暗くして、花に向かって一人坐ると、顔が白くなる。やがて皺ばんで、泣いているような笑っているような、年寄りの面相が宙に掛かり、顔に泥を頂いていて、ある夜、荒い息づかいが闇の底からふくらんで、人が山道を急ぎ登ってきた。最後の坂の途中から、いよいよだ、いよいよ無事だ、と喘ぎ伝えると、そうか、無事か、来るものがついに来たか、と杉林から沈んだ声が答えて、それを合図に、谷の先に続く野の果てから、塔の影がつぎつぎに突き立ち、南の空が焼けはじめた。男たちは林の中に寄り合い、下土に低く腰を垂れて、まず腹ごしらえに握り飯を取り出した。しばしは言葉もなく、ただ顔を間近から見かわして喰らうにつれてしかし、遠い赤光は紫をおびて、眺める間に紫からさらに青味がかり、なにかいかにも濃い漿液の、うわ澄みを想わせる薄明が地平に淀んだ。
古井由吉「また明後日ばかりまゐるべきよし」『仮往生伝試文』