人と話をしていて、声が棒調子になりかかる。格別の緊張や魂胆があるわけでもないのに、声が抑揚を失う、というよりも、抑揚に去られる。そんな時にかぎり、自分で自分の声がくっきりと外に聞える。しかも話す内容が、自分のまるで知らぬことに聞える。あれ…

物に立たれたように、自分が立つ。未明の寝覚めとかぎらず、日常、くりかえされることだ。日常はその取りとめもない反復と言えるほどのものだ。たいていは何事もないが、ときには、自分がいましがた、長いこと失っていた姿をふと取りもどしたかのような気分…

しかしそれよりもなにか厄介なのは、痩せたと人に言われる時にかぎってその前に、その場所へ行く道々、往来で人の痩せがしきりと目につくことだ。肥満に苦しむ時代とは言いながら、こうして見ると、痩せた人間はずいぶんと多い。若くて細いのは論外、生来痩…

見イちゃった、と幼い子供が戸口から駆けこんで来て、見ちゃった、ともう一度、今度はすこしかすれた声でつぶやくと、調理台に向かう若い母親のうしろを通り過ぎた。その二度目のつぶやきが母親には可憐に聞えて、良かったこと、何を見ちゃったの、と背を向…

造物主[デミウルゴス]は――と父は言った――天地創造を独占したのではない、創造はすべての精神の特権である。物質は無限の繁殖力、無尽の生活力を、そしてまたわれわれを造形へと誘う誘惑の力とを兼ね備えている。物質の奥底ではそこはかとない微笑が形づくら…

「生まれる前の」と書くところを、あやうく、「生前の」とつづめそうになった。その「生前」へ追いもどされたような、と言えばよいか、あの少年たちと、自分の母親とが、再従兄弟どうしと聞かされた時の心地は。ハトコという言葉がなにかいやな色をふくんだ…

「むし齒がいたむんです。」 看守は、けげんそうな顔をしながら、次の部屋の監視窓の方へ去つて行つた。看守が、そんな汚らしい作業をやつている清作を見たのは、二度や三度ではなかつたからである。だが清作は、看守が去ると、ふたたび指を口のなかに入れて…

またこんなことを言うマンション住人もある。夜更けによその人の声が、つぶやきほどだけれど、聞こえることがある。壁の中からではなく、外から来るのでもなく、遠近の感じもなく、しいて推測すれば、コンクリートか鉄筋かパイプかを伝う響きをたまたま部屋…

無事。この二文字を日々書き留めるだけで、立派な日記になるのだろう。なまじの記述があるよりはそのほうが、後から読んで、その間の記憶と照らし合わせて、はるかに起伏や曲折が感じられる。無事とは何としても書けない日もまれにはあるので。何事かが起こ…

自殺には違いない。しかし今の世の人間の思うような、まだ盛んな肉体の、命を強いて絶つのとは、同じではない。餓死と、この陰惨たる遊行者たちの場合、どれほどの隔たりがあるだろう。歩きつづけてきた者が、道に坐りこんだが最後、立ちあがれなくなる。膝…

また、夜中にいきなりどっと、大勢と思われる、人の囃し声がどこかしらで立つ。あれも、聞くほうの精神状態によっては、妙な心地にひきこまれる。人通りの絶えかけた夜道で聞くこともあり、家の内に居て、不機嫌に黙りこんでいるのにも飽きて床にもぐりこも…

'Well, perhaps you haven't found it so yet,' said Alice; 'but when you have to turn into a chrysalis--you will some day, you know--and then after that into a butterfly, I should think you'll feel it a little queer, won't you?' 'Not a bit,'…

'Found what?' said the Duck. 'Found it,' the Mouse replied rather crossly: 'of course you know what "it" means.' 'I know what "it" means well enough, when I find a thing,' said the Duck: 'it's generally a frog or a worm. The question is, w…

鵺的『幻戯【改訂版】』、遊郭の怪談あるいは性的関係の不在について

2/23昼、下北沢「劇」小劇場にて、鵺的 第六回公演『幻戯【改訂版】』をみる。昨年、この劇団の前回公演『荒野1/7』をみたときにも感想を書いた。前回はけっこう尖った抽象的な演出だったんで、これ以上進んだらアバンギャルドだよな、次どうなんのかな、と…

「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」 夏目漱石「明暗」

「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃いになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません…

"Where in God's name did you come from? Who are you?" burst out Mr. Button frantically. "I can't tell you exactly who I am," replied the querulous whine, "because I've only been born a few hours--but my last name is certainly Button." "You…

「さうね、それぢや、あたしもあなたの調査局にひとつ調査をおねがひしたいわ、つまりだれがあたしを調べさせてゐるかといふことを」 「それはすごいおもひつきだ、なんて頭のいいかただ!」とKは眼のなかまで赤くして叫んだ。 「しかし待つてくださいよ、…

「それではSさんを愛してゐるといふことにいたしませう」とLはいひました。 「それはどういふことだ」 「結婚してあなたのそばにゐるといふことです。それがあなたを愛してゐることだとさつきあなたはおつしやいました。あなたの愛の定義にしたがへばあた…

あんたはさつきからしきりに精神といふことばを使ふが、まさか肉体と精神といふ二元論でものを考えてるんぢやないだらうな。肉体が精神をいれる器なら精神も肉体をいれる器だ。どちらかを一方的に叩きだして自由にできるといふのはくだらない錯覚にすぎない…